企業責任というもの
写メは『水戸弘道館』
時に批判を受け入れなくては前に進まない場合がある。
それは演劇や映画評書評の文藝に限らず、歴史や政治も同じだ(たいていの当事者等は批評を批判と判断するのか、評を認めないものだ)
写真による社会批評の第一線といえば報道だ。かって写真を戦争のプロパガンダに用いて効果を上げたのはナチスドイツであり、戦争を写真で記録し、その一瞬のドラマと戦場の緊迫感を人々に認識させたのは連合国アメリカだ。
戦場報道という場に立つ撮影者の手にあった機材は、戦前はスピグラ、ライカ、戦後はニコンが、その代名詞となった。
ニコンは報道機材、常に報道写真の現場を見つめてきた。それは企業として誇りであったかも知れない。
報道写真のメッセージとは時に峻烈で、最近では福島原発事故関連、破壊された人々の生活、空しく置き去りになった動物達の屍…近未来の空想話ではなく、現実の出来事を写真一枚で告知する。
それが写真だ。
昨日、従軍慰安婦問題を扱った写真展をニコンサロンが拒否し、この問題に対して司法判断が下った。
『当然』の事ながらサロン側の敗北となった。
ここで、私は『当然』という表現を用いた。ニコンは報道写真…その現場主義の機材として、写真家に支えられカメラの代名詞にまで昇り詰めたのだ。
確かに、かって日本光学として戦艦大和の測距器を製造した国策会社である。極めて保守的であろう。しかし、である。
幾多の写真家がニコンの機材を信頼して報道撮影を敢行した事実、表現が右派左派に限らず写真の力を通じて、現代社会の人々の声を支える義務と責任が、この企業にはあると思う。
カメラを製造するとは、そういう事も含まれるはずなのだ。。
