性格判断
ラーメン屋の看板犬…お客さん来ないかなぁ。
先日、『廃墟写真』について述べた。
以前にもブログ内で書いているはずだ。私の意見は批判的な傾向の内容だ。
先年、二人の写真家が『廃墟写真』の著作を巡り司法判断を仰ぐ事態に至った。その後の推移は未見なのだが、実に無駄で愚かな事だと私は思う。
作家や画家、写真家たるもの作品の内容で競うもので、例え同様のモチーフや主題、モデルであったとしても同一にはならないはずなのだ。
同じ場所から対象を眺めて、それなりに学んだ者等が撮影者ならば同一な作品になるのは当たり前だと言える。
そこで、次回は違う構図を探す、あるいは再度撮影に臨み、定点観測として作品にする。
『廃墟』という時間過程における(波打ち際にある砂の城)を主題とするならば、まさに時間こそが命題だと考える。
しかし、法廷に著作権利を持ち込んだという事は少なからず二人が作家性を喪失したか、あるいは営業的に差別化を要求された結果なのだろうか。
作家とはある意味において反社会的な要素も持つ…社会風刺という表現が許され、また使える職業でもあると思っている。
法廷の場とは、(推定無罪)が原則であり、無罪の是非を争うのが司法である。人を有罪にして締め揚げる場と考えるならば、モンテスキュー以前の中世に逆戻りとなり、それは違うだろう。
いかに、その行為が無罪ではなく、厳しく有罪に等しいか…が焦点だ。
しかし、いやしくも常に表現世界の前衛であり先鋭である。あるいは歴史の知恵を集大成すべき作家自らが、作品性格を司法で争う場でない。
著作権利の是非と作品性の判断を混同して司法判断に委ねた悲劇というべきか。
