廃物
身近にあった棄物群。
時間が経過すれば、物とは本来の姿から廃物へと変わる。
記憶の中にあった映像は次第に曖昧になって『そんな場所や形だった…かな』と思い出しても、わずかな郷愁を誘う事はあっても、往事のように使ってみる事に意義を何ら感じないものだ。
昨年の震災前まで、写真作品のシーンとして『廃墟写真』というジャンルがあった。地方の山野に埋もれる廃鉱山や工場、捨てられたホテルなど、経済成長の陰で捨てられた抜け殻みたいな風景を撮影したものだ。
かって活動する人々が残した気配や記憶を辿る事で、郷愁を文明批判に置き換えて記号化した写真作品群だった。
だが、東日本大震災は国土自体が放射線による被害に廃墟と化す危険を招き、また津波による被災地は文明と人々の生活を押し流して、『郷里』は文字通りの廃墟と化した。
運命に告知された真実の『廃墟』とは、人が眺める風景作品ではなかった。
『廃墟』とは、人類の生命が消滅した未来に眺める残骸であり、表現言語を喪失した神仏の残曵でしかない。その擬体験を震災により人々は知ってしまったのだ。
実生活が廃墟化しているような不安定さの中、こうして『廃墟写真』というジャンル自体が…棄景となりつつある。
そして写真は、未だ反省のないままに『廃墟写真』を生み出した想像力の貧困さを抜け出せず、大量に消費され消去されてゆく画像群にすがろうとしているように見える。


