誰も知らなくて良い事もある | HOODのブログ

誰も知らなくて良い事もある

HOODのブログ-CA3A0264.JPG

他人が事実や真実など知らなくて良い場合もある。

とある老人の話。
老人は戦時中、旧海軍のパイロットであった。しかも、数少ない開戦時からの生き残りだ。

昭和17年、遙かインド洋に浮かぶセイロン島トンコマリー基地まで空襲に行き、英国の戦闘機と空戦。
そこで彼は肩に被弾した。
今でも、体内に敵機の7ミリ銃弾が残っている…という。
『その時に空戦したスピットファィア戦闘機の銃弾だよ…』
それは老人の勲章なのだ。


戦史資料から老人の話を調べると、どうやら戦闘機はスピットファィア機ではなくハリケーン機という少し旧型のタイプであったようだ。
当時、スピットはセイロン島には配属されていない。また、配属されていたとすればスピットファィアの武装は13ミリか20ミリ機銃へ転換が開始されており…老人の肩は吹き飛ばされるか、たぶん即死していただろう。

だが、そんな事を本人には言う必要はない。戦争を生き抜いただけで奇跡である。

記憶と史実は違う。人の記憶とは、つまり伝承であって、言葉に変える作業から物語が生まれるのだ。

事実を調べるのは歴史家の仕事に思えるが、私は違うと思う。
事実が必要なのは、記憶ではなく『正しい記録』を残す場合に限られる。
極端な例をあげると、殺人事件で『人を殺した…』は事実である。しかし、『なぜ人を殺したのか…』が真実なのだ。

事実優先こそが科学的検証であると人は思いがちだ。
しかし、『真実』を(事実の背後)において思考すると、人間の歴史も、単純に空虚な紙面でしかなくなる。また、人が人を裁く必要もない。人を憎む事や愛する事さえ無意味になってしまうだろう。


※負傷したために次のミッドウェー作戦には参加せず。もし、参加していれば戦死した可能性が高い。