ぬっぺらぼー
写メは樹齢500年の大銀杏樹。
小泉八雲の『怪談』に(ぬっぺらぼー)という目鼻、口などのない妖怪が出てくる。
大抵、一人の男が行く先々で(ぬっぺらぼー)に脅かされ、最後に駆け込んだ番屋、あるいは家で待つ妻、蕎麦屋の主、などに散々に怖い体験を息切って話すと…『そいつは、こんな顔だったかい』…と顔を上げる…やっぱり顔がない!
この話は物語の表面側から読めば、戯れた妖怪に追い回される一人の哀れな男の話だ。
だが、巷に溢れた顔のない人々とは一体何か。
あまりに不気味である。
少し裏読みを許されるならば、それは個々の主体や主張、存在を失った人々の群れ、極端に画一化した群と言えるはずだ。
『面従腹背』という言葉がある。
それは社会的にはシニカルでヒニリズムに満ちた態度であり、ふりかかる問題を避けながら斜めに構えている姿だ。
世の中の体制や、声の大きい力や長い物に巻かれて生きる事…腹の中は、いざ知らず…だが、言葉を発すれば強権を有する組織や体制側に誰何され、下手をすれば生命の危機さえ招く。その恐れから、目を捨て口を閉じ、耳を塞ぐ…皆が顔を失ってゆく。
もし、人々が自らの顔を失い、あるいは奪われて『ぬっべらぼー化』した時、健全な人間は限りなく息絶えて、やがて破滅が訪れる。
『それは、こういう顔だろう…』
かって我が国も『ぬっべらぼー化』した時代を選んだ時がある。
そこに至る理由は多々あろう。
選ばざるを得ない理由もある。
だが、代え難い生命を失ってまで『ぬっぺらぼー』の必要はない。
人々が声や目を失った社会は、必ず破滅するのである。
その声や目の結果がエゴイズムを招くとしても、他人のエゴと向き合ってこそ、人として生きる証だと、そう思いたい。
