『笑い』とは何か。
雨の都内。
仕事が、意外に早く片づいたので散策した。今日は携帯写メを使わずにフィルムコンパクトカメラで、傘越しからスナップする。
震災後、見慣れた風景が少しずつ変わり出した。
あの皮相と軽薄さに満ちたバブル以後よりも深く静かな変わり方だけに、我々か気が付いた時には根本的に激変しているかも知れぬ。
放射線汚染があると言われようが、傘もささずに居酒屋のバイト娘が街角に立つ。
変わらぬ風景にも見える。
だが、命を削るような毎日になるとすれば、深層にある実相は悲劇なのだ。
能や狂言は中世に大成されて、近世に移行した時代には成熟を迎えていた。
とくに苦しい戦乱の時期に、人間の有様を口語劇に高めた狂言は、どうして人間の醜さや嘆きまで取り込んで描けたのだろう。
しかも、戦乱という『死』を目前に控えながら『笑い』という実証を持ち込んでいるのだ。
今の時代に欠けている考え方の一つが、『真の笑い』とは何かを問う作業ではないのか。
空疎なお笑いに飽き厭きた毎日、ずいぶんと時間だけが過ぎている。
