試練というものか | HOODのブログ

試練というものか

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私の子供時代は外で遊ぶというより、部屋で本を読んでいる、かなり内にこもった性格でした。
そして、子供心にも生涯に読書を楽しめると思っていましたが、長い人生の中で必ずしうまくはゆかないなぁ…と最近思っています。
撮影仕事で目を使うためか、物を見ることに疲れやすくなって、文字を追うことが苦痛になってしまいました。

傲慢な言い方をすると、私は読書能力だけは他人より優れていると思っていただけに、かなりショックです。

またネットからの情報の早さや利便性に比較して、読書から身につける知識や情報が社会活動に際して、あまりに遅効過ぎるという現実的敗北感があります。

読書による大切な知識や情報も、単にパソコンのスキル程度と比較して大差なくなったように見えてしまう、それはある意味で無力感だけを負っているよう思えるのです。

やはり時代が動く前触れなのかな…。
既存の知識や情報が役に立たなくなり、新しい哲学や理論が発生する夜明けに立っているのでしょうか。

私には、歴史が培った日本の古典文学などの知識や教養の諸源が、単なる学術記録として仕分けされてゆく…それは厳しい選別過程が待ち受ける時代の大儀として、もはや避けられない道へ、この国も進み始めているように見えます。
…その結果の善悪を問うよりも、社会は次の情報や知識を貪欲に渇望しているように思えます。

日本人の意識や民族性が、今一度の創造と破壊を必要としているのでしょうか。

これを試練と見るのか、一つの終焉と感じるのか…それが、まさに時代に生きて行く人の力と証明なのだと、私は思います。