能評が文芸になる日
能の世界にも、映画や演劇と同様に、評論のジャンルがある。書き手は研究者や芸能文化記者が担当するようだ。
また、一般紙や専門誌記事と異なり、いわゆる業界関係誌に掲載される場合が多い。そして、最近ではアマチュアによるブログによる記事の投稿が続く。
だが、総じて評論記事というものが能楽の振興と発展に寄与しているか…については疑問である。
一つの能を評して、賞賛あるいは酷評を加えたとしても、観客の大半には無関係であり、シテ方や他の競演者においても参考意見にすら満たない。
演劇など評論記事の存在意義とは、新たな観客を招く効果に価値が生まれると思う。
ゆえに、能楽研究者や素人の気まぐれな技術論など、毛頭意味をなさないと私は思っている。
シテの技術や囃子方の優劣など、普通の観客が必ず楽しむために必要としている要因ではない。むしろ、能『井筒』だったら、全体的な『井筒』の仕上がりや能楽堂の空気など…つまり『味わい』を金を出して買っているのだ。
面の銘が洞水であれ
、宝増であろうとなかろうと、観客には遠目で判別など難しい。
また、能の囃子の手組が理解できるなら結構な事だが、しかし、あの囃子は鼓の拍が…寸法が悪い…など、気にして能を見ている訳ではない。
つまり、能評とは一部の熱烈なマニア向けの記事なのだ。
それが、いつしかご意見番になってゆく小賢しさが、近現代の能評には付きまとう。
確かに、つまらない能はある。しかし、その時に見ていたのは、その評論家ばかりではない。言挙げして『この店のラーメンはマズいよ』と店頭で叫ぶような行為など、私は自己満足以外の何者でもない…と考えている。
もし、本気で能評を志す方があるならば、全ての日常で能という存在と対決してほしい。
私は、師匠から能とは『日常である』と学んだ。
その日常と理解し対決して、乗り越えた地平から真の能評家が生まれて欲しい、と願っているのだ。
