※私たちは、常日頃どれだけ「意識的」に生きているだろうか?

 

私たちは「意識のフラッシュライト」を当てたところを見て認識することができますが、無意識であればそれは見ても認識できないのではないでしょうか。

 

私たちは、意識して光を当てることを学ぶ必要があるのではないかと思います。

 

例えば自分自身の見たくない内側を見たくないと思えば、光を当てず見ないこともできます。

 

それを見て、浄化することもできます。

 

見てもみなかったふりをすることもできます。

 

「意識」の使い方を学び知ることが「自動的機械的に生きる」ことから「自発的意識的に生きる」ことへの変換になるのではないか、そんな気がします。

 

以下、グノーシス的手法よりGoogle翻訳により転載です。

 

 

50.光を当てる

 

 メキシコでは、マスター・サマエルが私たちに、ここにいる方法、存在する方法の一例を教えてくれました。 彼はこう言いました。「意識を何にたとえることができるでしょうか。 それはある場所から別の場所へ向ける懐中電灯のようなものです。」 

夜、暗闇の中で何かを探す必要があるときは、懐中電灯のライトをオンにして、それを見つけるために必要な方向に光を向けます。 それはあなたの意識も同じです。 日常生活において、私たちは自分自身を知らないので暗闇の中にいます。 その光、つまり意識のフラッシュライトを当てると、私たちは照らし始め、その暗闇を意識することができます。 しかし、これは私たちがその場に存在し、注意を払い、意識する努力をした場合にのみ起こります。

 あなたが意識として存在していなければ、その光はあてもなく飛び交い、ナイトクラブのきらめく光のように、あちこち、あちこちをさまよいます...私たちは存在しなければなりません。 だからこそ、多くの人は、輝くボールや、外から来るさまざまな光と同一視するのです。 私たちは決してそれと同一視してはなりません。私たちは内側にいて、光を当てる方法を知っていなければなりません。