父の死をきっかけに
私は人をみる見方が少し変わったように思います
父含め私が育った環境では、多くの人が人を機能で見、計る人が多かったように思います
か、私がそのように受信していたか、
何なにを持ってる人
何なにができる人
何なにの地位の人
何なにのランクの人
みたいな感じ
その視座でものを見ると必ず上下とか優劣とか勝ち負けとか2つの極が生まれてしまいます
そういう視座に囲まれると、その共同体、群れから無能、無用視され追い出されたらヤバいので無能、無用のレッテルを貼られないようにみんな命懸けで頑張る訳です
でもその視座には決定的に残酷な面があります
それはトップが居ればドベがいて
優秀が成立するには劣等が不可欠だということ
ドベの居ないトップはいないし、劣等が存在しない優秀もまたありえない
あるグループだとトップレベルなのに、他のグループに移ったらドベになるということも当然起こる
その共同体で評価されなければ、他の共同体に移れば評価は全く違うかもしれないのに、なかなか、共同体を変えるという行動が出来ないのもまた人の事実
そしてその共同体で評価されず、孤独に陥って人生を見きってしまうなんて事が後を絶たない
私はそんな視座に囲まれた環境で育って、トップにはなれないが、そこそこのレベルでいること、とりあえず及第点であるという属性にしがみつく事で今まで自分のアイデンティティを保ってきた
(※ここではアイデンティティを「存在証明、自我同一性」といった意味で使います)
つまり、優秀(そこそこ)でなければ存在価値がないし、自分を自分として認めない、自分がいて自分と一致しないということだ
これは苦しい
評価されないとヤバいという脅迫観念
劣っていると見られる恐怖感
批判されたらアウト
失敗を認められない、隠そうとさえする
そんな人生やってきた
そして先日父が亡くなって、しみじみと父の死に顔を見ていたんです
そうするとなんか父が言ってる気がしたんです
「どうだ、まだ俺を憎むか?」って
その瞬間、なんか今まで自分の中でこんがらがってた糸が、全部ほどけて、一旦バラバラになったそれが全部綺麗に繋がった気がしたんです
それはいいしれない感動でした
今まで自分がしてきた事、苦しかった事、嬉しかった事、悲しかった事、様々な思い、様々な出来事、それらが全部繋がって、それらは今この瞬間のためにあったんだ、と、ほんとに思えたんです
私は父をとても恨んでいました
私たち家族を苦しめてたのは父だ、
私が精神的にこんなに苦しんできたのは父のせいだ
と思っていましたし、信じていました
心理学を学んで、そういう風に思うことは意味の無いこと
そんなこと思ったところで仕方がないこと
だから恨んでもしょうがない
そんなこと頭では分かっていました
手放せとか、
赦せとか、
受容しろとか、
いろんな概念を教わったし、言われたし、試したし、
きっとこんな感じ?ってのは理解していて
だからわかったテイでいました
でも、それは頭でわかっただけ、分かったテイでした
今回の経験は、そのテイと明らかに違っていました
なぜそう感じたか
それはその瞬間、父への大きな恨みが、大きな感謝に変わったからです
ひっくり返った感じ
1000m地中にいたのが、一瞬にして地上1000mになった感覚?(分かりづらい?笑笑)
顛倒です
一瞬にしてです
こんな経験は人生で初めてでした
「父は私にこの瞬間を与えるために、この気づきを私に贈るために、長年かけて私に様々な経験を与えてくれた」
「父は徹底して悪者になって、私へのこの瞬間のために自分の人生を賭けてくれた」
と、全身で心底感じ、心からの感謝想いが溢れてきたんです
「カッコイイぞ!親父!!」
そしてその瞬間、私は幼い頃、父が大好きだったということを思い出し、父との喜びの記憶が溢れ出てきたんです
そして、その瞬間から、私は人を見る観方が明らかに変わりました
言わずもがな、自分自身の観方もです
圧倒的な自由を感じ
嘘のように恐怖という拘束から放たれた感覚を味わいます
本当に楽なんです
これは、俗に言うスピリチュアルな体験では決してないと、私は思っています
それには論理的な構造があり、その構造を理解して、行動を伴わせていけばきっとそうなると感じています
私が考えるその構造と、行動についてはまた書きたいと思います
今回はこの辺にさせて頂いて、
お読み頂きありがとうございました