芸術とそれに関する思想には少し興味があり、以前にも「芸術の秋なのでわからないけど芸術について語ってみる」という記事を書いたことがある。芸術の秋。そのせいかは知らないが、以前から気になっていた「排除アート(という言葉)」について、ここで書いておこうと思った。
他者を締め出すための構造物を排除アートと呼ぶことがある。例えば、こんな具合にだ。
<都市で増える「排除アート>前編 ホームレスの居場所は? 2020年11月1日 中日新聞
公園の“意地悪ベンチ”が物議 排除アートか苦肉の策か…担当者「住民から騒音苦情」 2024年3月28日 テレ朝NEWS
「排除アート」「ユニバーサルデザインを真逆にいく」と批判されたJR大阪駅前の<立ち入り禁止ブロック>、空間を有効活用するには? 2020年10月4日 読売新聞オンライン
排除を目的として芸術作品を置いたものと思われる例もあったが、ここではあくまでも芸術作品として評価されることを目的としない構造物について語りたい。実を言うと、インターネット上を調べたら思っていたことの要点が以下のリンク先の記事などでいくらか書かれていた。
排除アート(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
五十嵐太郎「排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン」(美術手帳)
上記で紹介された佐々木敦氏の書評「野良ビトたちの燃え上がる肖像」(日本経済新聞 2017年1月8日朝刊)や、五十嵐氏の著書「誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論」(岩波ブックレット)には目を通していない。だから、この文章の内容は既にその中にあるものかもしれない。しかし折角考えたのだから、自分なりの考えを記しておこうと思う。
排除アートという呼び名については、かねてから納得し難いものがあった。今のところ自分の中で7割程度がそれを占めている。理由は佐々木氏と似た方向にあると思う。自分としては、他者を、特に少額を惜しんで行き場に悩む人を居つかせない仕組みに「アート」の名を冠することに抵抗があるからだ。芸術は弱いものいじめの道具か。芸術は、人の心を豊かにするものではなかったのか。そう思うと、暗に設置者の「排除」の意志を示し人をいらだたせるこれらの構造物は、芸術とはかけ離れた地点にあるとしか思えない。故に、その呼び名は不適切であるというのがこれに関する自分の意見のかなりの部分を占めている。
実を言うと、少し前まではこの考えは7割ではなく8割だった。1割減ったのは芸術についてもう少し考えてみたからだ。人の心を豊かにすることは、そのおおよそが人を快くさせることに近いと思う。しかし、芸術にはそれ以外の面もある。芸術とは心にトゲのように残り、感情に訴えることで世の中や人生を一層考えさせるものではないのか(少し話がそれるが、ここで言うトゲとは説明文のような単純な言葉に換算されないようなものである。この際なので触れておきたかった)。それによって思いを馳せ、思索を深めることもまた感情の涵養に重要な働きをもたらすのではないだろうか。それ故に、この呼び名が許される可能性がある。それが今の自分の心の1割を占めている。
ここで、この状況自体を「現代社会の弱者の排除の描写であり、故にアートといえる」という見方も浮かんだが、その論理で考えるなら、ホームレスの寝床と荷物は現代社会の労働社会に適応できない者を描き出しているアートかと言ったらそういうわけでもあるまい。これらは視点があまりに俯瞰的(注・これは見下していることを必ずしも意味しない)で対象との精神的な距離が離れている気がする。この手の言い方には、それよりも弱者に対する地に足のついた政策を考えるべきだと言いたくなる。遠回しな言い方は、結局理解を遠ざけるだけだろう。
ただ、この呼び名には芸術(家)の方にも幾分かの責任があるのではないかと思う。これが残りの2割だ。先の記事中にある五十嵐氏の言葉を借りるなら、「なんだかよくわからない、不思議なかたちをしたものを、とりあえず『アート』と呼ぶという風潮」が要点となる。これについてもう少し考えてみる。
そうなった理由は二方面からあると思う。一つは現代美術で、便器を展示したデュシャンの「泉」 (1917、リンク先はArtpedia(近現代美術百科事典))以降は美術の評価に知恵比べの割合が増えた、というのが自分の考えだ。ピカソの絵画にしても大抵は感情移入するより珍奇好奇の目で見るだろうし、ピエト・モンドリアンの「コンポジション」 (1930、リンク先同)については、そもそもなぜこれが芸術作品として扱われているのか疑問に思い、理解できないのが普通の感覚ではないだろうか。
もう一つは、駅前などの公共の空間に芸術作品として置かれている構造物のことで、「駅前 公園 オブジェ モニュメント パブリックアート」で画像検索すれば沢山出て来る。もちろん現地に行かなければ正確な判定はできないだろうが、これらの構造物は、その外見に対して「心を動かす」という意味で芸術作品と呼べるだろうか。
もちろん日常に接しているところなので、心を大きく動かす必要性はない。毎度見るたびに心を大きく動かされては、それはそれで見る方も疲れるだろう。場所に応じた程度の動かされ方でいい。その条件を、そのような構造物がどれだけ満たしているか。通りすがりにある変わった置き物で終わっていないだろうか。
ここで、ゲームクリエイターの水口哲也氏の体験を挙げておく。電ファミニコゲーマーの記事によると、カンディンスキーの絵画『モスクワ 1』を見てその場を30分くらい動けなくなったとのことで、ここまでさせてこそ(水口氏にとっては)芸術作品と呼ぶにふさわしい好例だと言える。
さて、先に挙げた現代美術や公共の空間の構造物に、多少なりとも心を動かされたことはあるだろうか。その体験がないのであれば、心を動かせなかった両者は、それに接した人にとってはおそらくわけのわからないものでしかない。
現代美術については、先鋭の作品として音楽と対比してみる。普段の生活では、先鋭の音楽に触れる機会はない。あるいは、このような言い方もできるだろう。團伊玖磨の交響曲や武満徹の管弦楽曲を聴いたことがあるだろうか。聴いたことのある人は多数派ではないだろうし、自分も聴いたことはない。それに対して、先に挙げたピカソの作品やコンポジションについては「どこかで見かけた」ことも含めて見たことがある人は多いだろう。つまり、芸術作品は先鋭であっても人の目に触れることが多い。そこに、芸術作品ならではの、先鋭に触れられる幸福と、それを理解し、感動にまで至らない不幸とを感じる。更に言うなら、その不幸を「勉強不足」と捉えられかねないことに芸術作品に対するかすかな反感が生じているのかもしれない。
公共の空間の構造物についても、現代美術の流れを汲んでいる点で先に挙げた要素と連動している面があるのかもしれない。また、その構造物については、公共の場に「芸術」という何だか偉そうな名札をつけて居座っていること(設置箇所によっては「邪魔」が加わる)、そしてそこに公費が注ぎ込まれている(ように感じられる)ことも反感の元になるのかもしれない。
現代美術と公共の空間の構造物の両者とも芸術を名乗る割に人々の心を動かしていないのなら、その人々の目に映るのは少し変わった絵や物体にすぎない。そのような物を「芸術(アート)」と呼ぶことを学習した結果、同様に少し変わった物体である排除のための構築物を排除アートと呼ぶようになっても不自然ではない。芸術の名の元に相応の心を動かす作品を作れなかったのだから、その面では芸術(家)に責任があると言える、というのが自分の考えだ。
ここまで述べたように、「排除アート」という呼び名については、自分としては釈然としない一方で納得できる面もある。しかし、一番重要な鍵を握っているのは実作者である芸術家だろう。芸術作品の制作を生業にしている人は、この言葉についてどういう想いを抱いているのだろうか。否定か許容か、いずれにせよ何らかの意見表明をしたほうがいいと思う。もしかして、自分の知らないところで既になされているのだろうか。
そして、芸術の名の元に創られる以上、その作品はその場に応じた程度の感銘を、その作品に触れた人に与えなくてはならないはずだ。評価の低い現代美術の芸術家が淘汰されるように、公共の空間の構造物については、住民の支持が少ない作品は更新するべきなのかもしれないが、実際には予算の都合でそうもいかないだろう。となると、この種の構造物は芸術という分野全体に対しても、長きに渡ってその評価の責任を負うことになる。芸術作品として感銘を与える目的が達成されていないから、芸術に対する揶揄とも受け取られるような用法が流通するのだろう。改めてここで、排除アートが設置されている場所は美術館の中ではなく、公共の空間の構造物に近い位置、公共の空間やその空間から見える箇所であることに注意する必要がある。この両者、公共の空間の構造物と排除アートは、見る側からすれば心理的に近いところにあってもおかしくはない。
最後に。この件については、どうしても芸術に対する深い思考が感じられない。適当に名付けたり、適当に流通したりするのが言葉の本質なのかもしれないが(例・課金(コトバンク))、この「排除アート」という言葉の用法については、要は、現代美術と公共の空間の構造物を主とした現代の芸術の実績、つまり大多数の日本人の心を動かせなかったがために、それらの芸術に対する関心が広範囲にかつある程度深く生じなかったのが主因なのではないだろうかと考えている。
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