まずは感想から。終わりの辺りまでは、1回読んどけばいいよね、と思っていた。しかし、終わりの部分が良かった。数年経っても読み返したくなるかもしれないと思った。なので、しばらく置いておくことにした。
面白いかどうかと言われると、そこそこ面白いほうだと言える(ここでも言うけど、終わりの方が良かった)。というより、当初の展開の予想がズレたまま進んで行ったのを考えると、少し変わった感触の小説として紹介したい。
あっ、私が持っているのと表紙が違う。
ワクワク感については、xxxが出て来るまでが最も高かった。xxxが出てきて、あれっと思った。
最初に興味ある謎(話題)を提起して読者を引き付けておく方法は、読んでいて推理小説に近い仕組みを感じた。
アレはP-modelの楽曲の元ネタとしか思えないし、アレも一般名詞だけどそうなんじゃないかなと思う。きちんと調べてないですが。
以前から、PCサーバーの一群をなぜ「クラウド(雲)」と呼ぶようになったのか気になっていてネットでいくつかその理由を読んで、それなら「サンゴ」でも「森」でもいいじゃないかと思っていたが、この本のP286の台詞に、これに影響されてもおかしくないような表現があったので引用してみる。
「(略)それは、みんなが一吹きずつのもやを持ちよった雲のようなもので、その雲がみんなの代りにあらゆる重大な思考をやってくれるんだ。といっても、実際に雲があるわけじゃないよ。それに似たあるもの、という意味だ。(「実際に」には傍点あり)(以下略)」
これはサーバー群をクラウドと名付けた人に尋ねたくなる。
(この箇所とクラウド等との連想については、インターネット上に既に指摘あり)
それにしても、これは読む前から思っていたのだが、アメリカの(SF文学史じゃなくて、全ての)文学史上この作品はどういう扱いになっているのだろうか。いや、もっと範囲を広く考えるべきだろう。アメリカにしろ日本にしろ他の国にしろ、このような、本道とされる文学とは異なる特定の分野の小説は、その国の(全ての)文学史の中で、どのような評価をされているのだろうか。SF小説、推理小説、時代小説、ラノベ、ミステリー、異世界……日本のSF小説だと、日本全体の文学史では星新一は評価されていそうだ、ぐらいの認識しかない。もちろん相当古い認識だろう。私の持っている国語便覧の年表を見てみると、一番新しいのが村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)だった。それとも、多種多彩な大量の小説が出版されている現代では全ての分野に渡って評価できる人または団体は存在しようがなく、そのような文学史を作成するのは最早不可能で、仕方がなくその代替として今我々が見知っているいかにも本道な感じの文学史を使っている状況なのだろうか。考えてもきりがないが、それがどうにも気になった。
とりあえずこの記事は以上です。何かあったら付け足します。
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