江戸時代というと武士が権力を握って士農工商という身分制度で庶民を縛って利権を吸い上げて鎖国という国家閉鎖を行っていたために産業文化が停滞した封建国家だったと学校で習った、(^_^;)😅👿。実際はどうだったのかというと士農工商などという身分制度はなく単に武士とそれ以外という分け方だったようだ、(^_^;)😅👿。
また武士は領地を持ってそこから得られる年貢を主な収入としていたが、過酷な年貢を徴収して一揆などを起こされると改易になるので四公六民あるいは五公五民程度の年貢でほとんどの大名はあまり過酷な年貢徴収はしなかったそうだ、(^_^;)😅👿。農民、江戸時代は一次産業従事者を全て合わせて農民と言っていたが、時に飢饉などもあったが、概ね生活に困窮することはなかったそうだ、(^_^;)😅😊😉。
また大名行列などでは「下に、下に」と言って行進して庶民は脇に避けて土下座しているが、実際は「下に、下に」は将軍家と御三家だけで一般の大名行列は「脇によれ」とか「避けろ」と言って行進していたそうだ、(^_^;)😅👿。また庶民は道を開ければそれでよくて土下座する必要はなかったそうだ、(^_^)/~😉😊。大名行列が江戸市中に入ると各大名は市民の反発を恐れて黙って歩いていたそうだ、(^_^;)😅👿。庶民にとっては華やかな大名行列を観るのは楽しみの一つだったそうだ、(^_^)/~😉😊。江戸時代も中期以降は貨幣経済が発達して商人が金を握って力を得て武士は高騰する物価に生活を維持するのに汲々としていたようだ、(ーー゛)😅👿。
鎖国も完全に外国との交流を絶っていたわけではなくオランダや清、朝鮮などとは交易をしていたし、そうしたルートから得た情報で各国の事情も把握していたそうで幕末に米国のペリーが艦隊を率いて来日することもオランダを通じて知っていたという、ヽ(^。^)ノ⛴️😅👿。当時の幕府はペリーとはかなり強かな態度で交渉を行っていた、(--〆)😠🤬👿。また江戸時代は庶民文化が大発展を遂げた時代で産業や技術など遅れた面もあったが、平和で大らかな時代だったようだ、ヽ(^。^)ノ😉😊。
ではどうしてそんな間違った情報が広がったのかというとそれは薩長政府が自分たちの政権を正当化するためにしたプロパガンダでそれが現代まで続いているのである、(--〆)😠🤬👿。明治維新などというが、要するにあれはクーデターで政権が徳川幕府から薩長に変わっただけで特に大きな変化はない、(--〆)😠🤬👿。外国の技術、制度を取り入れて国を発展させることは幕府も積極的に行っていた、(^_^;)😅👿。明治政府はそれらを取り込んだだけでさらには人材不足で行政事務が滞って幕府の役人を大量に雇用して行政を処理していたそうだ、(--〆)😠🤬👿。
また戦って政権を奪取した薩長政府は好戦的で欧米の帝国主義を模倣して武力で領土を獲得することに積極的で自己の力を過信して最後には米国にケンカを売って破滅した、(--〆)😠🤬👿。幕末に政治や社会制度の変革が必要だったことは間違いないし、誰がやっても国を開いて欧米文化や技術を取り入れることは必要だったが、その土台を作ったのは幕府で薩長は権謀術策と武力でそれを乗っ取ったに過ぎない、(--〆)😠🤬👿。その後70年で国を崩壊させるような戦争を始めたのだからろくな政府ではない、(--〆)😠🤬👿。
しかしそんな薩長政府が行ったプロパガンダが現代まで続いているのだから考えてみれば恐ろしいことではある、(^_^;)😅👿。歴史は勝者によって作られると言うが、昔学校で習った歴史もずいぶん変わっている、(^_^;)😅👿。幕末から昭和の近代史ももう一度再検討してみるのもいいかもしれない、( ゚д゚)ハッ!😅👿(^_^;)。いろいろな事実が出てくるかもしれない、(--〆)😠🤬👿。