太平洋戦争当時の日本陸軍の戦車は小型軽装甲で搭載する砲も小口径で威力不足、その上数も少ないといいところがなかった、(・_・;)😅👿(^_^;)。これは予算不足に貧弱な輸送インフラ、さらには冶金技術や砲の製造技術が劣っていたこと、また陸軍は戦車よりも航空機の整備を優先していたこともあった、(^_^;)😅👿。


また砲にしても技術的に遅れていたので外国、特にフランスの技術に頼っていた、(^_^;)😅👿。対戦車砲も戦争初期は37ミリ速射砲を装備したが、同口径のドイツのラインメタル製には貫徹力で劣っていた、(^_^;)😅👿。戦争中期には47ミリ速射砲が装備されたが、この砲は性能はよかったが、当時の世界の主流は75ミリクラスで威力不足は否めなかった、(・_・;)😅👿(^_^;)。さらに57ミリ速射砲を試作したが、列強の戦車に対しては威力不足ということで開発は中止になった、(^_^;)😅👿。


しかし米軍のM4戦車に対抗するためにフランス🇫🇷シュナイダー社製の75ミリ野砲をライセンスした90式野砲を一式戦車に載せて三式戦車を製造したが、この砲は500メートルの距離でM4戦車の正面装甲を貫通することができたが、当時の戦車の交戦距離は1000メートルから1500メートルくらいでやはり威力不足だった、(・_・;)😅👿(^_^;)。また野砲をそのまま戦車に載せたので射撃は砲手が照準して車長または装填手がりゅう縄を引いて発射したそうだ、(^_^;)👿😅。また制退器が砲塔外に出ていてこれに被弾すると射撃不能になってしまうので大きな欠点だったそうだ、(ーー;)😥😨(-_-;)。さらに4式戦車は主砲に戦争初期に鹵獲したスゥエーデンボフォース社製の75ミリ高射砲を載せていたが、この砲も高射砲の需要で手一杯で戦車砲を製造する余裕がなかったそうだ、((+_+))😅👿(^_^;)。弾丸もムクの金属弾ではなく中に火薬が入っていたので強度が低くて装甲に当たると割れてしまったという、(^_^;)😅👿。


また戦車の装甲もレベルが低かったという、((+_+))😅👿(^_^;)。海軍が一式戦車を利用して水陸両用戦車を製作した際、装甲は軍艦のものを利用したらその装甲の強度に陸軍関係者は驚いたそうだ、(^_^;)😅👿。また火砲も海軍の方が技術的に進んでいたそうなので陸軍は海軍とケンカばかりしていないで技術的に交流すればよかったのだが、陸海軍が紛いなりにも協力するようになったのは戦争も末期になってからだった、(。>﹏<。)😅👿(^_^;)。


そんなわけで日本陸軍の戦車は「偉大なる凡作」と言われた米軍のM4戦車には全く歯が立たず苦戦に苦戦を重ねた、(--〆)😠👿。それでは日本陸軍の戦車兵が弱かったのかと言えばフィリピンなどで90式野砲を搭載した一式砲戦車4両が隠蔽待ち伏せ戦法でM4戦車を撃破したりクラークフィールド飛行場防衛戦では旧式な15センチ榴弾砲を搭載した四式自走砲2両が射撃しては移動する機動戦でM4戦車を撃破しているので要は敵戦車の装甲を抜ける砲を搭載した戦車があればノモンハン以来の精強な日本陸軍の戦車部隊指揮官と戦車兵は決して負けなかったという、(--〆)😠👿。


また威力のない砲でM4戦車のハッチの蝶番や視察孔を狙って撃破したり野砲や高射砲と協力して撃破するなど苦しい戦いを続けたが、要はせめて敵戦車の装甲を貫通することができる火砲を製作すればよかったのだが、予算もなく技術的にも劣っていた日本陸軍にはそれさえできなかったのは実際に戦う兵にとっては厳しい現実ではあった、(--〆)😠👿😅(^_^;)。