太平洋戦争当時の陸軍の戦闘機に二式単座戦闘機「鍾馗」という戦闘機がある。この機体は当時の日本が好んだ零戦や一式戦という格闘戦向きの軽戦闘機ではなく速度と上昇力、急降下性能などを重視した重戦闘機で頭でっかちに短い前進翼という奇抜なスタイルの割には高性能で海軍の同種の戦闘機「雷電」に比べてトラブルも少なかった。戦後の米軍のテストでも最良の迎撃戦闘機と評価されている。この機体は着陸速度が速いために着陸時の事故が多くて「殺人機」などと言われて軽快な戦闘機に慣れた搭乗員には嫌われたが、当時の日本戦闘機としては群を抜いた速度や上昇力に若手の搭乗員には好まれたそうだ、\(^_^)/😃⤴️🙆🆗(^^)/\(^^)。「鍾馗」は四式戦の開発が進むとともに見捨てられて改良もされず生産が中止されてしまったが、エンジンやプロペラの不調でまともに飛ばない四式戦の補完戦力として適時適切な改良をしておけばそれなりに活躍しただろう、\(^_^)/😃⤴️🙆🆗。ちなみに「鍾馗」の設計者の一人は戦後ロケット🚀開発で名を馳せた糸川博士である、\(^_^)/😃⤴️😃⤴️⤴️🙆🆗。「鍾馗」はもしも海軍が「雷電」の開発を止めて「鍾馗」を採用していれば三菱の設計陣は人的物的資源を零戦の改良や次期艦戦の開発に降り向けられただろう、\(^_^)/😃⤴️🙆🆗。さらに言えば陸軍は一式戦の開発を止めて同じ長距離侵攻戦闘機の零戦を陸軍仕様に改造して使えばさらに人的物的資源の節約になっただろう。零戦には防弾装備がなかったが、艦戦として必要な着艦フックやら浮き袋やらを取り外して防弾装備をすればいい、\(^_^)/🙆🆗(^^)/\(^^)。武装もそれぞれ選択出来ただろう。当時の陸軍と海軍は似たようなものを独自に製作していたが、工業生産力の小さい日本では過剰な人的物的資源の負担になっていただろう。同じ口径の機銃でさえ規格の異なる弾丸を使用していて互換性がなかったのだから始末が悪い。陸軍が使った直協という近接支援機も海軍の99式艦上爆撃機が使えるだろうし、戦争後半の新型機開発も共同で行えば人的物的資源の節約になっただろう。末期には「秋水」など一部共同開発の機体もあるが、基本双方似たような機体を別々に開発装備していた、(ーー;)(/o\)。米軍も陸海軍で別々に航空機の開発を行っていたが、機銃など共用できるものは共用していたようだ。当時の日本のように企業の開発能力や生産力が貧弱な国は「なんでもかんでも俺は俺」ではなく人的物的資源の効果的な活用をもっと考えるべきだったように思う。まあ当時の陸軍と海軍の確執を考えると無理なことだったように思うが、(ーー;)(/o\)🙅🆖⤵️人的物的資源の効率的な活用を陸海軍で協力して検討していたら生産が効率的に行われただろう、\(^_^)/😃⤴️🙆🆗(^^)/\(^^)。しかしだからと言って米国に勝てたわけではないが、(ーー;)(/o\)( ̄□ ̄;)!!😱❕👀‼️🙅🆖⤵️。