元々少数精鋭主義だった海軍航空隊はソロモン諸島方面の消耗戦で大量の搭乗員を失い、その補充が間に合わず泥縄式に搭乗員の大量養成を始めたが、その質は低下するばかりで米軍との航空戦力の量的、性能的な差に加えて搭乗員の練度不足も航空戦の劣勢に拍車をかけた。そして通常の艦船攻撃をしていたのでは成果が上がらないと体当たりの特別攻撃隊を編成するようになった。そんな時期に海軍航空隊の源田実大佐は「精鋭戦闘機隊を編成して局地的にでも制空権を奪還してそこから戦局の転換を図るべき」と主張して海軍第343航空隊を編成した。この飛行隊が使用する戦闘機は紫電改、搭乗員は当時の海軍の精鋭を集めたと言うが、飛行時間が1千時間を超えていたのはごく一部で飛行時間が少ない未熟な搭乗員が大部分だったと言う。それでも一部の熟練搭乗員を中心として燃料、資材などの不足に苦しみながら訓練を続け、4対4、8対8、16対16などこれまでは一騎打ちを好んだ日本海軍搭乗員とは異なり徹底的な編隊空戦の訓練を行った。また戦闘機隊でありながら彩雲偵察機を装備する偵察飛行隊も持っていてレーダーや地対空、空対空の通信システムも整備して敵状の早期把握を目指したと言う。本来は6カ月の訓練を経て実戦投入の予定だったが、戦況はひっ迫して半年の訓練期間などと悠長なことを言っていられる状態ではなくなり1945年3月に戦闘に参加、呉などに来襲した米軍艦載機を迎撃して撃墜57機を報告する大戦果を挙げている。米軍側の記録では未帰還機14機となっているそうだが、米軍も負け惜しみが強いので本当のところを公表してるとも限らない。実際に彼我の被害が同数としても3倍の敵機と戦って同数なら勝ち戦だろう。その後も沖縄戦の特攻機の進路啓開や制空、B29の迎撃など戦闘を継続したが、機材の補充が続かず搭乗員の戦死も多く最後には稼働機数が20機程度まで落ち込んでしまったが、1945年8月まで来襲する米軍機と戦闘を続けて74機程度の損害に対して米軍機170機を撃墜したと言う。実際の戦果はその半数以下とも言うが、半数以下としても絶対的に優勢な米軍機との戦闘で互角に戦ったのであれば勝利と言ってもいいだろう。このような航空隊があと4個飛行隊あれば米軍の侵攻を相当程度食い止めることが出来ただろうと言うが、仮に4個飛行隊が揃っていても戦況が変わるなどと言うことはなかっただろう。しかしそれなりに来襲する米軍機を苦しめただろうが、当時の破壊され尽した航空機生産設備や封鎖された海上輸送路などを考慮すると紫電改を4個飛行隊分生産するなどと言うことは不可能だっただろうし、燃料の確保もできたかどうかわからない。また搭乗員も4個飛行隊分を集めることはできなかっただろう。混乱する国内状況の中圧倒的に優勢な米軍を正面から迎え撃って最後まで戦い続けた海軍第343航空隊はたとえその戦果が言われるよりも少なかったとしても負け戦が続く海軍にとっては最後の意地だったのだろう。搭乗員も勝てるとは思わなかったが、負けるとも思わなかったそうで搭乗員にしても互角以上の戦いを繰り広げているという意識だったのだろう。戦後もこの戦闘機隊のことはずいぶん持ち上げられているが、圧倒的な劣勢の中で健闘した隊員に対する敬意があるのかもしれない、・・(^_-)-☆。