す空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火(ごうか)で朱に染めた死闘を戦った。第12回は、日本海軍が最後に建造した戦艦で、世界最強の大和型戦艦の2番艦。海軍内部でも不沈戦艦と称されながら、航空機の集中攻撃によって「大和(やまと)」よりも先に撃沈された悲運の名艦「武蔵(むさし)」のエピソードである。

当初、第2号艦の仮称で呼ばれた「武蔵」は、1938年3月29日に三菱重工業長崎造船所で起工された。「大和」と同じくその建造は秘匿されることになり、さまざまな工夫が施された。たとえば、その巨大な船体を隠すためにシュロを使って簾(すだれ)のような目隠し材が作られた。しかし当時、シュロは漁網などに用いられており、海軍が極秘で一気に大量買い付けしたせいで市場価格が高騰。これを漁業関係者が訴え、事情を知らない警察が不当な買い付け事件として捜査したともいう。一方、造船所近隣の住人たちは、それまで一度も見たことのない巨大なシュロの簾で「武蔵」が建造されている船台が囲われたため、何かが極秘で建造されていると察しており、それが超巨大な戦艦であることは薄々ばれていたともいう。

また、造船所を見下ろせる高台に建っていたグラバー邸や香港上海銀行長崎支店は、関係者以外の目視を避けるべく三菱重工業によって購入され、造船所の対岸にあったアメリカとイギリスの領事館からの視野を遮るために、長崎市営常盤町倉庫が建てられている。もちろん、軍の内部でもさまざまな形で機密保持が図られた。その一例としては、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から、長崎市上空の飛行を禁止されたほどであった。

「武蔵」の進水は1940年11月1日。相変わらずその存在を秘匿するため、進水式当日は防空演習の名目で近隣住民の外出が禁止され、警察、憲兵、海軍将兵多数が見張りに立った。「武蔵」の就役は太平洋戦争勃発後の1942年8月5日。「大和」よりも後から建造されたため、「武蔵」は「大和」での問題点の改善が図られている。そのひとつが旗艦設備の充実で、ゆえに就役後は一時期、連合艦隊旗艦を務めた。1943年4月18日、前線視察中に撃墜され戦死した山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官の遺骨は、「武蔵」に乗せられて同年5月23日に帰国した。

その後、「武蔵」は栗田(くりた)艦隊の主力の1隻としてレイテ沖海戦に出撃。シブヤン海海戦でアメリカ艦上機多数の波状集中攻撃を受けて満身創痍(まんしんそうい)となり、1944年10月24日に戦没。戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平(いのぐちとしひら)艦長以下1023名で生存者は1376名。このとき、先に戦没して「武蔵」に救助されていた重巡洋艦「摩耶(まや)」の乗組員117名も戦死している。(白石 光)

 

艦上機の集中攻撃で迎えた最期!日本海軍が最後に建造した大和型2番艦「武蔵」(歴史人) - Yahoo!ニュース

 

大和型戦艦は昭和12年に建造が決定した戦艦で当時はゼロ戦の試作が始まった時期で航空機も全金属単葉機が出始めたころだが、当時の第一線機は複葉機が多くまだまだその攻撃力は低いものだった。大和型戦艦は味方の制空権下で敵の戦艦と砲戦を行うために作られた船で太平洋戦争後半のように大量の艦載機の攻撃に耐えられるように作られてはいなかった。魚雷1,2本を受けても戦線に止まって戦闘を継続でき、魚雷3本程度を受けても何とか基地まで帰投できると言った程度の防御力だった。ただ艦全体を防御すると重量が重くなりすぎて艦として機能しなくなるので重要部分のみを防御する集中防御方式を取っていた。重要部分の装甲は2万から3万メートルで自艦の主砲弾に耐えられる程度、またダメージコントロールも当時最新鋭のものが備え付けられていた。しかしそうした防御はあくまでも敵戦艦との砲撃戦のためであり対空兵装も敵の着弾観測機を追い払うためで大量の航空機と戦いこれを撃退するためのものではなかった。太平洋戦争では前半期はこうした戦艦の活躍の場はあったが、巨艦を動かすと大量の燃料を必要とすることや主力艦温存策のために一線に出ることなく終わってしまった。大和、武蔵が機動部隊の護衛として第一線に出たのはマリアナ沖海戦からだが、その時にはもう米国海軍の空母機動部隊はその前には何ものの存在も許さないほどの戦力になっておりレイテ沖海戦では武蔵は被害担当艦となり魚雷20本以上、爆弾10数発を受けて沈没した。大和も沖縄特攻作戦で米軍の航空攻撃吸収艦となって魚雷10本以上、爆弾数発を受けて沈没した。戦後、大和、武蔵は無用の長物のように言われ、ピラミッド、万里の長城と並んで三大バカとか言われるが、ピラミッドや万里の長城はいざ知らず、戦艦大和、武蔵は戦争前半期であればその使い方によってはかなり活躍できただろう。確かに航空機の急速な発達によって戦艦は主戦力の座から滑り落ちたが、その大火力と強靭な抗堪性は極めて大きな戦力だった。特にガダルカナル攻防戦当時に使えば一大戦力となっただろう。ただそうしたからと言って戦争に勝てたわけではなく単に一時的に戦況が有利に展開したという程度だろう。日本に何があろうと米国の巨大な工業生産力の前には無力でただ飲み込まれるだけだっただろう。

 

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