太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第8回は、戦局の悪化にともなってますます重要になった偵察をより充実させるべく、海軍航空技術廠が、当時の先端技術を注ぎ込んだ高性能の高高度偵察機「景雲(けいうん)」である。
日本海軍は、先手必勝の考え方に基づいて、敵艦隊などをより早く正確に発見することを伝統的に重視していた。特に戦局が不利になってくると、敵情を詳しく知るうえで、偵察はいっそう重要な任務となった。そこで海軍航空技術廠(かいぐんこうくうぎじゅつしょう)は、日本の負け戦(いくさ)がこんできた1943年、高性能を備えた高高度偵察機の開発に着手する。想定されたその性能は航続距離約3200km以上、最高速度730km/h以上というもので、敵戦闘機の迎撃を振り切っての強行偵察を可能とする目的があった。
当時、連合軍が実戦に投入していた2000馬力級エンジンを搭載した戦闘機と同等以上の性能の機体を開発するという野心的な計画だったが、生産機数が少ない偵察機なので、製造に際して特別な「技術的な手間」がかけられること、同じく偵察機なので武装が不要であり、それが機体の軽量化に有効であること、といった有利な条件もあった。
この高性能を満たすべく、設計は、先端技術が盛り込まれたきわめて野心的なものだった。たとえば、エンジンは当時、愛知航空機がライセンス生産していたドイツのダイムラーベンツDB600系エンジンであるアツタを2基並列に組み合わせた愛知ハ70-I 液冷倒立V双子型24気筒で、胴体中央部に搭載。そこから機首まで延長軸を伸ばしてプロペラを回す構造だったが、このエンジン配置とプロペラの駆動方式は、かつて研究用に輸入したドイツのハインケルHe119高速偵察爆撃機に倣ったものだった。また、そのプロペラも6翅(し)であり、それまでの日本機では珍しいものである。
胴体中央部に横幅のある双子エンジンを搭載したため、外観は単発機ながら胴体幅が生じたので、操縦席はサイド・バイ・サイドの複座となった。延長軸で駆動するプロペラのおかげで、機首内部に空間が生じたため、降着装置は前脚式になっている。他にも、エンジンの高高度性能と出力の向上を目的としてターボチャージャーを装備。高高度飛行に対応するため与圧室も備えるという、当時の日本機ではまだ試験中で実用化されていないメカニズムも盛り込まれた。
ところが1944年6月、戦局の悪化にともなって多岐に渡る試作機を整理することになり、18試陸上偵察機「景雲」と命名されたこの機体も、いったんは開発中止の俎上(そじょう)に載せられた。しかしジェットエンジンの開発の目途がつき、いずれはエンジンを換装すると判断されて、試作1号機が1945年5月に初飛行した。だが日本の技術力の限界に挑戦したエンジンを中心に問題が生じ、わずかな時間を飛行したにすぎなかった。かくして、組み立て途中だった試作2号機を加えて試作機が2機だけ造られたところで、この野心的な高高度偵察機「景雲」は、終戦によりその生涯を閉じたのだった。(白石 光)
野心的設計でジェットエンジンへの換装も視野に入れた高高度偵察機【景雲】(歴史人) - Yahoo!ニュース
この機体は空技廠で試作された機体なのでかなり先鋭的な機体ではあるが、まずまともに飛ぶ機体にはならなかっただろう。エンジンは単体でも手に負えないDB601の並列24気筒、これをギアボックスで結合して延長軸でプロペラを駆動するなんて当時の日本の技術では途方もないことでその上与圧室に排気タービン過給器なんて正気の沙汰ではない。まずはエンジンの冷却不足で火災、その後はエンジンの不調でまともに飛ぶこともできず飛行時間は10分程度、ジェットエンジンを装備するということで開発が続いたが、ジェットエンジンができる前に終戦となって終わった。どうせなら始めからジェットエンジン装備で開発した方が良かったかもしれない。当時の日本は海軍が91オクタンのガソリンを精製していたが、陸軍は87オクタン程度、100オクタンガソリンや潤滑油は米国から輸入していたそうだ。戦略物資の鉄や石油を米国に依存しているのにその米国にケンカを売るなんてこれも正気の沙汰ではない。偵察機であれば高高度を高速で飛行できればいいのだから手に負えないエンジンを並列に胴体中央に装備してギアボックスで結合して延長軸でプロペラを駆動するなんて聞いただけでもうダメそうな気がすることはしなければよかった。100式司偵のように双発にすれば十分だろう。艦上偵察機の彩雲は試験では630キロほど出たというが、実用機では600キロちょっとに落ちてしまった。それでもエンジンの調子さえよければグラマンF6Fよりも優速だったという。戦後米軍の試験では694キロと言う高速を記録している。試験飛行の条件が違うので一概に比較はできないが、良質のガソリンや潤滑油に高品質のプラグなどを使用したというので条件が良ければ当時の誉も高性能を出せたのだろう。しかし当時の日本はエンジン開発技術も設計性能を支える周辺技術、電気コードの絶縁とかプラグとか潤滑油とか燃料とか、も欧米に遅れていたのでエンジンの性能は落ちるばかりだった。当時安定した性能のエンジンは100式司偵に装備されていた金星(ハ112Ⅱ)だったのでできるだけ小型軽量、高翼面荷重の機体にして速度を稼ぐしかなかっただろう。戦争後半期になると日本は一発逆転を狙い過ぎて身の丈以上の機体ばかり試作しては失敗して自滅していたが、身の丈に合ったものを作ればよかった。海軍で最も可能性のあった高性能機は紫電改にハ43エンジンを装備した紫電改5でこれは米海軍のF8Fベアキャットに匹敵したかもしれないという。それもエンジンが額面通りの性能を発揮すればの話だが、・・。陸軍は5式戦、海軍は金星ゼロ戦でしのいでその間に新型機の開発を進めれば、・・とは言ってもそのころには米軍はジェット機を大量に配備してくるだろうからやはりダメか。国土も資源も技術も勝っている国にケンカを売ってはいけない、・・(◎_◎;)。
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