空母出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第9回は日本が独自に建造し就役当時は世界最強と目され、「世界のビッグ・セブン」のうちの1隻に数えられた長門型戦艦の1番艦。戦没こそしなかったものの、大戦末期に空襲で損傷し終戦を迎える。そして戦後すぐに、ビキニ環礁での原爆実験に供されて没した名艦「長門(ながと)」のエピソードである。

日本海軍は、第1次大戦後の増強案として八八艦隊計画を立ち上げた。同計画をごく簡単にいってしまうと、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を保有。これを日本海軍の主軸に据え、その他の艦艇で補強するというものだった。そして、この計画の嚆矢(こうし)として設計されたのが長門型戦艦である。設計に際しては、日本海軍の「師匠」であるイギリス海軍からクイーン・エリザベス級戦艦の設計図の提供を受け、これをベースに同じくイギリス戦艦ウォースパイトも参考にしたうえ、日本独自の改修も加えて完成させた。

最大の特徴は、当時、世界的に戦艦の主砲としては最大口径の41cm砲を連装砲塔に収め、この砲塔を艦首側に2基、艦尾側に2基の計4基8門備えたことだろう。このように、長門型は就役当時は世界最強の戦艦であった。のちにワシントン海軍軍縮条約で16インチ砲搭載の戦艦の保有数が世界的に制限され、アメリカ3隻、イギリス2隻、日本2隻しか認められなかったため、この7隻は「世界のビッグ・セブン」と称された。また、艦首は独特のスプーンバウとされたが、これは当時の秘密兵器だった艦隊決戦用浮遊機雷の1号機雷を起爆させずに乗り越えるための工夫である。最大速力は26.5ノットと、当時の戦艦としては高速であった。

「長門」は就役後、連合艦隊の旗艦となり、太平洋戦争中は「大和(やまと)」と「武蔵(むさし)」が秘密扱いされていたことから、日本国民は噂では「大和」型の話を聞いたことはあっても公式には終戦まで「長門」型を日本の最強戦艦だと思っていた。「長門」は戦前に2回の近代化改装を施されており、他にも逐次小改装が施された。そして1941年12月の太平洋戦争開戦に際して有名な「ニイタカヤマノボレ1208」の真珠湾攻撃を命ずる暗号無線は、本艦の無線室から発信されたのだった。

しかし開戦後は、航空主兵の台頭と大艦巨砲の衰退が影響して、活躍の場はほとんどなかった。そのため戦争末期には、燃料不足もあって横須賀に係留され、アメリカ艦上機の空襲を受けて損傷。終戦によりアメリカ軍に接収された。そして戦後、捕鯨の再開にともなって、大洋漁業に捕鯨母船として貸し出される可能性もあったが、これはかなわなかった。その後、「長門」は1946年7月にアメリカがビキニ環礁において実施した原爆実験の「クロスロード」作戦で、標的艦の1隻とされ没した。その姿は現在も同地のダイビングスポットとされているが、放射能汚染の問題でダイバーが触れることは許されていない。(白石 光)

 

原爆実験で没した日本が誇る名艦・長門型1番艦「長門」(歴史人) - Yahoo!ニュース

 

長門型戦艦の長門、陸奥は八八艦隊の1、2番艦として建造されたが、ワシントン軍縮条約が締結され、陸奥の扱いが焦点になった。日本海軍は陸奥の完成を主張したが、米英は未完成艦として廃棄を主張、結局、日本は陸奥の保有を認めさせる代わりに英国にはネルソン級戦艦「ネルソン」「ロドニー」、米国にはコロラド級戦艦「コロラド」「メリーランド」「ウェストバージニア」の5隻の建造を認めることとなり、16インチ主砲を搭載したこの7隻は「ビッグ7」と呼ばれた。長門型戦艦の最高速度は26ノットのところ公称は23ノットとしていたが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災時、連合艦隊は大連沖合で演習中であったが、急遽演習を中止して救援物資を搭載して東京に急行した。この際、長門は最大速力26ノットで航行していたが、イギリス東洋艦隊旗艦の巡洋艦プリマスに追跡され本当の速力が露見してしまったそうだ。長門、陸奥は交互に連合艦隊旗艦を務め、国民から最も親しまれた戦艦だった。太平洋戦争開戦後、昭和18年6月に陸奥は爆沈、長門はマリアナ沖海戦までこれと言った活躍はしていない。これは主戦兵力が航空機となり戦艦は無用の長物になったように言われるが、大火力と強靭な防御力を有する戦艦は使い方によっては有効な兵器であり日本の戦艦が金剛型を除いて活躍しなかったのは大型艦の温存策に加えて燃料の問題が付きまとったことが主な理由だが、長門型、伊勢型、扶桑型の場合は速力の問題もあったようだ。金剛型が戦争全般を通じて活躍したのは戦艦と言うよりも巡洋艦的な使い方をされたからだろう。長門型にしても戦争前半期であれば活躍の場所はあっただろうが、戦争後半期には米軍の航空兵力が強大になり過ぎてその前では何ものも無事では済まないような状況になってしまったので活躍の場も何もなかっただろう。レイテ沖海戦後内地に帰還した長門は横須賀に係留されて米軍の相模湾上陸の際は三浦半島越しに艦砲射撃を行うなど防御砲台として活用される予定であったが、終戦時、米軍の空襲で中破状態ではあったが、航行可能な唯一の戦艦だった。終戦後、米軍に接収されてマーシャル諸島のビキニ環礁での原爆実験の標的艦として使用されることになった。第一実験では戦艦ネバダが中心に配置され長門は爆心予定地から400mのところに置かれたが、弾着が西方に600mずれてしまい、結果爆心地から約1.5 kmの位置となった。この時長門は殆ど無傷であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。第二実験では爆心地から900-1000mの位置にあり右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいたが、4日後の朝に長門の姿は海上にはなかった。4日間の間に浸水が拡大して沈没したと言われる。長門が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝されたが、これも負け惜しみで被爆を耐えた艦は長門以外にも米戦艦ネバダ、アメリカの軽空母インディペンデンス、ドイツの重巡洋艦プリンツ・オイゲン等多数存在する。さらに長門とほぼ同じ距離にいた米駆逐艦ヒューズですら二度の被爆を沈まずに耐え抜いている。しかし、無人で防水措置が取られなかったことから浸水が拡大して沈没したので乗員が適切な防水措置を講じていれば沈没は免れたと言われる。ビッグ7の中、ネルソン級2隻とコロラド級3隻は戦後スクラップとして解体されてしまったが、沈没状態であった長門と陸奥(艦首から艦橋付近の第1主砲を含む約25%が海底に残されている)は今も現存している。長門ももう少し高速が発揮できるように改装しておけば戦争前半期には活躍の場はあったと思われる。ただ貧乏海軍だった当時の日本海軍の大艦温存策と燃料事情が活躍の場を奪ってしまったように思える、・・(◎_◎;)。

 

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