日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、何度味方から反逆を受けても、頑なに裏切りを信じなかった信長の秘めた想いを紹介。 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を再発信する。
他人の情緒を理解するのが不得意だった信長
信長と足利義昭の蜜月関係は長く続かなかった。義昭を奉じて上洛した翌年には、早くも仲違いが始まっている。永禄12年秋のことだ。御所の義昭を訪問した信長が、突如岐阜に帰国してしまう。心配した正親町天皇が、帰国の理由をたずねるために勅使を派遣するという騒ぎにまでなった。信長の返答は不明だが、奈良興福寺の多聞院日記にも「信長十二日ニ上洛、十六日上意トセリアイテ下了ト」という記述がある。12日に上洛した信長が、16日に上意つまり将軍と意見が対立して岐阜に下ったというのだ。興福寺は義昭が幼少期から将軍になる直前まで過ごした縁の深い寺だ。その興福寺の多聞院英俊が義昭の動向に敏感なのは当然としても、関心の焦点が信長と義昭の関係にあったことがうかがえて興味深い。
義昭の将軍任官でもたらされた都の平和の後ろ盾が、信長の軍事力であることは世間の誰もが知っている。ふたりの関係が良好なら、この平和は長く続くかもしれない。けれど、それがもし壊れたらどうなるか。信長が手足のように動かす数万の軍勢は、そのまま大規模な戦乱の火種になりかねなかった。英俊に限らず、この時期の畿内の人々が、薄氷を踏む思いでふたりの関係を見守っていたことは疑いない。その危惧が現実化し始めたのがこの時だった。翌年4月、信長は3万の軍勢を率いて越前へ向かう。手筒山城、金ヶ崎城と朝倉氏の支城を落とし、越前国に乱入しようとした矢先、北近江の浅井長政が寝返ったとの注進が届く。
「虚説たるべし」
そう言って、信長は最初報告を信じようとしなかった。信長の理屈はこうだ。長政には妹のお市を嫁がせてある。長政は義弟であり歴然たる縁者だ。しかも、北近江全体の支配を任せている。彼には何の不足もないはずだ。だから自分を裏切るはずがない……。(TEXT=石川拓治)
織田信長が味方の裏切りを頑なに信じなかった驚きの理由とは(GOETHE) - Yahoo!ニュース
織田信長と言う人は超合理主義者で物事を合理的に判断している。その合理主義が人間関係にも取り入れられている。信長の部下に対する評価は利益を与えることだった。松永久秀も荒木村重も浅井長政も十分な利益を与えているのだから謀反など起こすはずがないという結論に至る。そこには謀反を起こした側の心情など入り込む余地がない。部下にしてみればあまりに先進的な思考について行けずに不安になって謀反を起こすという自己保身パタンがあっただろう。明智光秀もこのパタンだと思う。もう少し信長がそうした部下の心情に配意していれば本能寺の変はなかったかもしれないが、あれほど急激な時代の変化は成し遂げられなかっただろう。信長が今の時代にいても彼の革新性について行けないものが大勢いるだろう。やはり織田信長と言う人物は戦国時代を平定するために時代が登場させた人物かも知れない。信長は不世出の天才戦略家だと思うが、天才にも至らない点があった。それは他人の心情を計ることだったのかもしれない、・・(◎_◎;)???
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