太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第1回は、ドイツの技術を参考にして日本海軍が実用化。量産開始の直後に惜しくも敗戦を迎えた「橘花(きっか)」である。

素材の品質の良し悪しや加工技術の水準の高い低いといった点を別にすると、レシプロエンジンよりもジェットエンジンのほうが、構造が単純なので生産は容易で、しかも、燃料と潤滑油もレシプロエンジン用のものより低質でも問題がない。だが一方で、高温や高回転にさらされる部品の素材の品質の高さや、精度の面で高水準の加工技術が求められるといった点が、生産上のネックとなる。

太平洋戦争末期、日本海軍はレシプロエンジンよりも生産が容易で大パワーが期待できる、ジェットエンジンを使用した特殊攻撃機の構想を抱いていた。折しもドイツでは、メッサーシュミットMe262ジェット戦闘機が実戦に使用されて高い評価を得ていた。そこで日本でも、海軍航空技術廠(かいぐんこうくうぎじゅつしょう)の中口博海軍技術大尉を責任者、松村健一技師を設計主任として開発を開始する。そして潜水艦を使ったドイツとの技術交換でMe262の情報を入手したが、肝心の潜水艦が撃沈されて詳細な資料は失われ、たまたま技術士官が携えていた一部の概念資料だけが、同士官自身により空輸されて日本にもたらされた。

その結果、外見的にはMe262に似るものの、各部は大きく異なるジェット機が設計されて「橘花」と命名された。当時のジェットエンジンの低出力を補うべく、Me262と同様に双発で、エンジン配置にかんしても、生産も整備も容易という観点から、両主翼下にそれぞれ1基ずつの懸架が選ばれている。終戦を8日後に控えた1945年8月7日、「橘花」は燃料の低質油を10数分の飛行だけができる軽い状態で、海軍横須賀航空隊実験担当の高岡迪(たかおかすすむ)少佐の手による初飛行が実施され、日本初のジェット機の飛行は見事成功した。飛行時間は約12分だったという。この時期、「橘花」はすでに生産に着手しており、完成機が2機と、生産途中の半完成の機体が10機以上存在していたようだ。

もし「橘花」の量産と部隊配備が行われれば、一部に特攻機として用いられる予定があったと伝えられ、それはあり得る話だっただろう。しかし主な任務は、海軍機らしく対艦攻撃に主眼を置いた水平爆撃や緩降下爆撃で、反跳爆撃にも用いることになっていたという。なお空対空戦闘は、この爆撃任務に次ぐものであった。なぜなら、空対空戦闘にかんしては、新型のレシプロエンジン戦闘機(「烈風/れっぷう」など)に依存しようという思惑があったからだ。そして「橘花」の運用部隊として第724海軍航空隊が編成されたものの、実機がないだけでなく終戦までの時間もなかったことから、ほとんど訓練も行えずじまいだった。

歴史に「もし」は存在しない。だが、「もし」も一定数の「橘花」が実戦に投入されていれば、物量で押してくるアメリカを相手に、対艦攻撃と空対空戦闘で相応の戦果をあげていたことは間違いない。もちろん、それで切羽詰まった日本の戦局を逆転できるわけもないのだが。(白石 光)

 

量産を開始するも終戦となってしまった「日の丸」をまとった幻の試作機:ジェット特殊攻撃機【橘花】(歴史人) - Yahoo!ニュース

 

太平洋戦争末期、日本陸海軍は起死回生をかけてジェット戦闘機やロケット戦闘機を開発した。ロケット戦闘機は「秋水」、そしてジェット戦闘機が、この「橘花」である。ドイツからMe262の資料をもらってきたが、シンガポールから持ち帰った簡略な資料以外は潜水艦とともに水没し、ほとんど資料なしで開発を進めたが、日本もジェット機の研究については行っていた。そして完成したのがこの機体である。ただエンジン推力が小さく性能的にはMe262には及ばなかったようだが、順次強力なエンジンができ次第、戦闘機型などを制作する計画だったようだ。しかしエンジンの耐久時間はわずか10時間、もっとも当時の航空機用レシプロエンジンも耐久時間は100時間程度だったと言うが、海岸付近から出撃して侵攻してくる米軍を攻撃する特殊攻撃機と言う立ち位置で量産も始まっていたようだ。またジェットエンジンは松根油などの粗悪な燃料でも稼働させることができたので戦争末期の日本には合っていたかもしれない。しかしこの機体が量産されても米国はP80というさらに進歩したジェット戦闘機を量産していたのでとても太刀打ちはできなかっただろうし、米国はさらに高性能のジェット機の開発もここなっていた。橘花以外にも試作偵察機「景雲」にネ330を搭載してジェット化した攻撃機「景雲改」、ネ30(空技廠製)を搭載した陸上爆撃機「天河」、陸軍の計画したネ130もしくはネ230搭載の特殊戦闘機「火龍」があるが、これらも設計段階で終戦を迎え、海軍の局地戦闘機「震電」にもネ130搭載によるジェット化の構想があったそうだ。いずれにしても米国には技術力でも生産力でも遠く及ばなかったので物資が欠乏し、生産設備が空襲で破壊される中、ジェット機生産で戦局を挽回するなどと言うことは不可能だっただろう。しかしながら戦争末期の混乱した状況で物資も欠乏している中、独力でジェット機あるいはロケット機を開発したことについては称賛に値する。戦後7年間日本は航空機の開発製造を禁じられたことでその開発能力は政界に大きく遅れてしまったが、戦後70年以上を経てようやく世界のレベルに追いついてきた。技術は継続して行わないと進歩しない。三菱重工のスペースジェット開発失敗がそのことを明らかに示している。高度先端技術開発継続によって成立する。戦前戦中の日本は航空機の開発を全力で行ってきたからあの混乱した状況でもジェット機、ロケット機の開発ができた。今後も失敗するたびに「ああだのこうだの」言わないで先端技術の開発は継続すべきだろう、・・(^_-)-☆。

 

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