2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の冒頭で描かれた桶狭間の戦い。ドラマでは岡田准一さん演じる「魔王」織田信長と、信長軍の圧倒的な威圧感が強調されていたことは記憶に新しいでしょう。しかし、史実の桶狭間の戦いを見てみると、少なくとも家臣たちは「大慌て」だったようです。家臣の大反対を前に、信長はなぜ無謀な戦いを挑んだのでしょうか。今回は、最新の歴史研究をベースにした『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』から、桶狭間の戦いを解説します。
戦国時代の尾張国(現在の愛知県西部)。この国で大きな力を持っていたのが織田家でした。織田家は、信長の父・信秀の代で一気に力を伸ばしました。しかし、その織田家を長年苦しめてきたのが、駿河国(現在の静岡県中部)の今川義元です。今川氏は「海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)」と称された義元のもと、東海地方屈指の戦国大名としての地位を確立しました。この義元の妨害により、織田家は信秀の代で尾張統一をできず、代替わりした信長も一族の内紛に手を焼いていました。1559年にはなんとか内紛を片づけ、尾張のほとんどを統一することができますが、「義元がいる限り、先はない」という状況に信長はいたのです。
■作戦会議はなぜか雑談で終わる
1560年、信長は動きます。尾張国の中にありながら、義元におさえられていた鳴海城・大高城の奪還を試みたのです。そのために、信長は2つの城の連携を遮断しようと城攻め用の砦(鷲津砦・丸根砦)を築きました。つまりは、信長が義元にケンカを売ったのです。これに対し、義元はケンカを買います。「信長をおとなしくさせるにはいい機会だ」と考えたのか、義元は4万5000ともいわれる大軍を率い、尾張へと出陣しました。義元軍は5月17日に尾張の沓掛城へ入り、先発隊に朝比奈泰朝と徳川家康を指名。泰朝には鷲津砦の攻撃を、家康には大高城への兵糧(食料)運び入れと丸根砦への攻撃を命じました。この両者は見事に作戦を成功させます。優秀な武将たちが圧倒的大軍を引き連れ、首尾よく作戦を進めていく状況……。どう考えても信長は存亡の機に立たされていました。
が、当の信長は18日の夜に家臣を集めて会議を行うも、まったく戦の話を出さず、普通に世間話をしていたと言われています。「殿はついに頭がイカれてしまったか……」と家臣が考えても無理はありません。信長は、いったい何を考えていたのでしょうか。翌19日、義元軍の攻撃があったと知らされた信長は、即座に出陣を決断します。通常、兵力的に不利な場合は城に籠もって持久戦をすることがセオリーなのですが、信長はそれをあえて無視した形です(実際、家臣からも籠城を勧められたという話もあります)。出陣に際し、信長は「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり(人の世の50年など、天の世界ではたった1日の出来事に過ぎない)」というフレーズで有名な「敦盛」を舞ったと言われています。一方、義元軍は桶狭間の山に陣を敷いていました。「負ける要素など1つもない」という余裕な状況だったことでしょう。
そんな義元軍に対し、まず信長軍が仕掛けます。2名の家臣が300騎ほどで義元軍に突撃します。しかし当然これは、あえなく敗退となります。この動きは、信長の陽動作戦とも、単に功を焦った家臣の暴走とも言われていますが、信長はその裏で衝撃的な行動をとります。敵陣の真正面、低地にある中嶋砦に入ったのです。何が衝撃かといえば、義元は山の上にいるわけですから、信長軍の動きは義元軍から丸見えになってしまいます。家臣たちは「これでは義元軍から丸見えです! ただでさえ人がいない(信長軍の兵は2000足らずだったとされる)ことがバレちゃいますよ!」と猛抗議。が、信長は意に介さなかったと言います。奇行に次ぐ奇行。いよいよ、何を考えているのかわかりません。
■もはや狂気の正面突破
なぜか低地の中嶋砦に陣を敷いた信長。彼の奇行はまだ続きます。中嶋砦から、何の工夫もなく正攻法の正面攻撃を仕掛けようとしたというのです。これも、セオリーとしては迂回攻撃をするほうが合理的。というより、正面突破はあまりにもムチャな選択です。当然、家臣たちは中嶋砦に進んだとき以上の猛抗議。信長を羽交い締めにしてでも進軍を止めさせようとします。が、信長は「相手は疲れきっているが、こちらは元気だ。大軍を恐れちゃいけない。運は人間の力ではどうにもならないという言葉もある。もしこの戦いに勝てば、お前たちの名は末代まで語り継がれるぞ!」と家臣を鼓舞します。
これで納得したのか、はたまたあきらめたのか……信長軍は結局そのまま出撃することになります。こうなっては、もはや家臣たちにできることは「死ぬ気で戦う」以外にありません。戦場の兵士たちは誰もが死を覚悟したでしょう。信長に隠された秘策はあるのでしょうか。……あるはずです。
4万5000の大軍を率いる義元に向かって正面突破を試みる兵2000の信長。信長軍は豪雨の中で兵を進めてゆき、雨が上がったタイミングで襲いかかります。ここで信長に隠された秘策は……何もありませんでした。本当に、ただただ死ぬ気で正面突破を試みただけなのです。もはや自滅作戦以外の何ものでもありません。しかし、この狂気じみた行軍がなんと大成功します。信長軍の圧倒的な気迫に押されたのか、義元軍は統率がとれず、一瞬で崩れはじめたのです。仕方なく義元は立て直すために本軍ごと撤退を開始しますが、前軍が崩壊した混乱が本軍にも波及したようです。なかなか思うように進めず、義元軍はますます大混乱。そんな中、信長は撤退する義元たちの姿を見つけます。「義元はあそこにいるぞ!」。信長がそう叫ぶと、両軍は壮絶な戦いを始めたのです。
多数の死者が出る乱戦となる中、事態は大きく動きます。信長軍の毛利新介らが、義元と直接戦うことに成功したのです。さらに毛利新介はこの戦いに勝ち、義元を見事に討ち取りました。大将を失った敵軍は総崩れとなり、信長は歴史に残る大勝を挙げたのです。近年、合戦直前までの悪天候による今川軍の疲弊と鉄砲の威力低下を勝因に挙げる学説も登場しているものの、信長が多くを語らなかったため「なぜ勝てたのか」は実はよくわかっていない「桶狭間の戦い」。しかし1つ言えるのは、信長は合理性を超えたところに自分の勝ち筋を見出し、それを信じたということ。それにより、信長の言う「運」をも味方につけたのでしょう。(齊藤 颯人 :歴史ライター)
家臣は絶望、秘策なしの狂気の運ゲーだった「桶狭間の戦い」の真実(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース
今川勢は4万5千とか言うが、今川の領地石高が7、80万国程度だったことを考えると動員兵力は2万5千程度、領国に残置する兵力を考えると1万5千から2万程度ではなかっただろうか。侵攻軍2万5千と言うのは戦闘部隊1万5千、補給部隊1万ほどだったようだ。織田軍は領地石高60万国程度だったが、当時信長が統治できたのはその半分程度で動員兵力は最大9千人ほど、実際には5,6千人だっただろう。その半数を出城や砦に配備すれば手元には3千程度が残っただけだったようだ。今川義元は上洛を考えていたとか言っていたが、現在では織田との領土紛争を解決してうまく行けば織田の領土を切り取ってやろうと考えていたようだ。それでも1万5千対5千程度なので織田側が圧倒的に不利ではあるが、籠城は援軍があってこそ成立する戦法で援軍が来ない状況で籠城してもただ先細りになるだけなので援軍のない織田側にとってこの状況では適切な戦法とは言えない。今川方の実戦部隊1万5千と言ってもこれが一か所に固まっていたわけではなく丸根、鷲津の砦攻めや大高城への食糧運び込みなどで1万程度は前線に展開して義元本陣は5千程度だっただろう。そうすると5千対2千で数は2倍以上だが、戦勝で気が緩み、乱取りなどに出ている部隊もあったので義元本陣の護衛部隊はさらに少なかっただろう。信長は自分が信頼できる子飼いの2千の親衛隊を率いて義元本陣に一撃を加えて引き上げる予定だったと言われる。まさか義元を打ち取れるとは思わなかったらしい。義元本陣に一撃を加えて混乱を引き起こし、領地争奪戦に勝ったと言う実績を作ればそれでよかったようだ。ところが今川方は豪雨の中を進軍してきた織田軍に気が付かず雨が上がったら目の前を駆けて行く軍団があり、「なんだ、なんだ」と思っているうちに本陣に飛び込まれて義元が打ち取られてしまったと言うのが実際のところらしい。両方の総兵力で比較すると今川軍2万5千対織田軍5千程度だが、先手を取って勝利した今川軍は気が緩んで実際には織田側2千に対して義元を守って戦ったのは馬回りの親衛隊3百程度だったと言う。織田側にしてみれば5千でも自軍の2倍以上でまともに戦えばどうなったか分からない乾坤一擲の戦闘だったが、様々な要因が織田側に有利に働いて歴史的な大勝利を収めたのだろう。桶狭間の戦いはその後面白おかしく話が盛られた部分もあったようで世に言われるような奇跡の勝利でもないのだが、それにしても大博打の綱渡りのような戦いではあったのだろう。それ以後信長はこうした一か八かの博打的な戦闘はしなかったそうだ、・・(◎_◎;)。
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