織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で起きた長篠の戦い(1575年)とは、どんな戦いだったのか。歴史研究家の河合敦さんは「『大量の鉄砲が騎馬隊を退けた』と教科書などにも書かれているが、最新の研究ではいくつもの異論が出ている。武田方が破れたのは、兵種の違いではなく、兵力の差だったのではないか」という――。(第1回)
「大量の鉄砲が武田の騎馬隊を蹴散らした」はウソである…最新の研究でわかった長篠の戦いの本当の姿(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
記事が長いので興味のある人は上のURLで見ていただきたい。長篠・設楽が原の戦いは織田・徳川の鉄砲隊が武田の騎馬隊を撃破したというが、設楽が原の地形を見ればそんなことがあり得ないのは一目で分かる。設楽が原は南北を低い山に挟まれた低湿地で真ん中に川が流れ、その両側は水田になっている。その幅は200メーターほどであんなところで馬を使った戦などできるはずもない。あんな低湿地では馬は走れないし、そんな広さもない。おそらく織田・徳川軍と武田軍はお互いに向かい合って山麓に野戦築城してにらみ合っていたが、南信濃に抜ける今でいう国道151号を織田・徳川勢に塞がれて退路を断たれた武田軍が織田・徳川の陣地を突破しようと陣地から押し出して畦道を突撃したのだろう。それを織田・徳川軍の柵に阻まれ、馬防柵と言うが、馬よりも突撃を阻止する柵のようなものだろう、火縄銃の射撃を受けてせん滅されたのだろう。当時火薬も鉛も輸入品で堺を押さえていた織田方はそれらが豊富に手に入ったと言うが、武田方は火薬も鉛も不足していて銅で弾を作ったりしていたそうだ。火縄銃の三段撃ちと言うのは江戸時代の小瀬甫庵の『信長記』の創作だろう。江戸時代と言うのは太平の世の中が続き過ぎて人々が刺激を求めたので様々な歴史創作物が作られたが、忠臣蔵や真田幸村、そして武田騎馬隊最強伝説などもその一つらしい。だから江戸時代の歴史ものは創作が多いようだ。ただ織田軍が相当数の火縄銃を有していたことは事実のようで100人から150人くらいの鉄砲足軽衆が柵に寄ってそれぞれ発砲すれば交互撃ちのような形になったかもしれない。低湿地に足を取られて進軍がおぼつかずそこに射撃を受ければ徐々に勢力は減退して行って最後は壊滅するだろう。徳川は柵の外に出て戦ったと言うが、織田軍は柵から一切出なかったそうだ。白兵戦をしないで打ち破ったならやはりそれは火縄銃や弓などの長射程兵器が使われたのだろう。武田勝頼も自軍が1万5千で3万8千の織田。徳川連合軍を迎え撃つなどしないでさっさと甲府に戻って織田・徳川が追撃してくれば勝手知った自国の領土内で戦えばよかったんだろうけど家臣団をまとめ切っていなかった勝頼にすれば家臣から軟弱の誹りを受けたくなかったんだろうか。野戦築城した陣地と言うのは城と一緒でそれを攻略するには攻者3倍の原則で織田・徳川が3万8千なら10万以上の兵力が必要だが、織田・徳川軍の半分にも満たない兵力で築城された陣地を突破しようとしたこと自体が無理なことだったのだろう。武田の家臣団も織田信長自身が出陣していると聞いて不利を悟り撤退を主張したと言うが、勝頼はそれを退けて決戦を選択したという。この戦いは単に長篠城攻略から始まった領土争いで不利を承知でここで決戦する必要もなかったのにやはり取り敢えず当て馬領主の勝頼は家臣団に弱気と捉えられるのを嫌ったのだろうか。武田勝頼も有能な戦国大名だったというが、織田信長も勝頼の首級を前にして「勝頼は有能な武将だったが、運がなかった」と言ったそうだ。織田・徳川軍の勝因は兵力に野戦築城陣地、そして火縄銃だろう、・・(^_-)-☆。
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