日本初の多発ジェット機「C-1」
1970(昭和45)年11月12日は国産輸送機C-1が初飛行した日です。同機は航空自衛隊のみで運用されている中型輸送機で、戦後に開発された国産の多発ジェット機としては初めてとなる機体です。C-1の外見はオーソドックスな軍用輸送機そのもので、いうなれば基本に則った形状といえます。胴体上部に主翼が付けられた高翼機という構造で、尾翼も垂直尾翼の上端に水平尾翼が取り付けられたT字とよばれるもの。加えて胴体後部には下と左右に開くランプ式の貨物扉も装備しています。C-1固有の緑と茶の迷彩模様がなければ、遠目からは外国の軍用輸送機と見分けがつかないかもしれません。
しかし、C-1は他国の軍用輸送機よりも優れたSTOL(短距離離着陸)性能を備えているのが特徴です。この機体の最短離陸滑走距離は約600m、最短着陸滑走距離は約460mとそれぞれ非常に短く、小型旅客機のボーイング737の最短離陸滑走距離が約1700mであることを考えると、極めて優れたSTOL性と形容できるでしょう。また、輸送機でありながらも高い操縦性を兼ね備えており、機体を横に傾けるロール角の最大斜度は60度とも言われ、真横に横転させた場合は90度まで傾けても問題なく飛行可能とも。2022年現在、C-1を複数運用する第402飛行隊が所在する入間基地の航空祭では、戦闘機のような8の字旋回や、高速低空飛行からの機体を横転させた上昇急旋回(コンバット・ピッチ)などを披露し、話題となっています。
今でも現役 銀色塗装のC-1試作1号機
C-1の開発が始まったのは1960年代です。当時、航空自衛隊の輸送機はアメリカから供与されたプロペラ駆動のカーチスC-46しかありませんでした。同機は戦前に初飛行した古い機体ゆえに、1960年時点ですでに輸送機としての能力は不十分なものとなっていました。そこで、より高性能な次世代機を新規調達すること、さらに将来の国内産業の発展を見据えて国内開発することが決定したのです。その結果、導入されたのがC-1でした。
設計と開発は、戦後初の国産旅客機YS-11を製造した実績により日本航空機製造(日航製)が担当、生産については国内の航空機メーカーが分担して担当することになりました。ただ、日本航空機製造は自社工場を持たないため、原価管理が甘く、当初の計画では赤字必須であることが露呈します。加えて同社は法律で民間機にしか携われないと明言されていたため、量産については川崎重工業が主契約企業になったのです。C-1が川崎重工製といわれるのは、これが由縁です。
最初に完成した試作1号機(XC-1)は、1969(昭和44)年から川崎重工業の岐阜工場で組み立てが行われ、翌年8月にロールアウト。それから約3か月後に航空自衛隊岐阜基地で初飛行を達成しました。当時のカラーリングは、機体の大部分が金属感を感じる銀色で塗装されていました。しかし、これだと地上駐機中に上空から目立つことが問題視され、1978(昭和53)年頃から現在の迷彩塗装に切り替わっています。ただ、初飛行当時の銀色塗装は試作1号機で受け継がれており、同機を転用したC-1 FTB(飛行実験機)は銀色塗装のまま航空自衛隊岐阜基地を拠点に飛び続けています。その後、1973(昭和48)年に入間基地の第402飛行隊から配備が始まり、翌1974(昭和49)年からは実任務への投入もスタート。その後、小牧基地の第401飛行隊(後にC-130Hへ機種変更)と美保基地の第403飛行隊でも運用が始まりました。
国産初の多発ジェット機、残るはあと何機?
C-1は、試作機も含めて31機が製造され、長らく航空自衛隊の航空輸送の中核を担う機体として重用されてきましたが、長年の運用による老朽化が進んだことで2011(平成23)年頃からは退役する機体も出始めます。一方、後継機であるC-2の配備も進んだことで、2022年11月現在の運用機数は片手で数えられるほどにまで減少しています。2022年現在、C-1の複数運用しているのは入間基地の第402飛行隊のみです。ただ、同飛行隊についてもC-2への更新が進められていることから、入間航空祭でのC-1の編隊飛行に関しても年を経るごとに減り続けており、2022年の参加機はたったの2機。しかも、そこに参加した内の1機である98-1029号機は航空祭での展示飛行が最後の飛行となっていました。
C-1の全面退役と運用停止の時期については正式には公表されていませんが、その姿が見られる時間はそう長くないようです。高いSTOL性と機動性が評価される一方で、開発当時の政治的な配慮から国内のみの運用を想定した短い航続力は、運用のネックともなりました。しかし、基地間の貨物輸送などによって航空自衛隊の運用を大きく支えてきたことは間違いありません。陸上自衛隊の訓練や演習などにおいても、空挺隊員の落下傘降下や、物資、車両などの空中投下で数多く支援に就いており、C-1は言うなれば国防と災害派遣の両面で縁の下の力持ち的存在として活動し続けた「功労者」だとも形容できるでしょう。今後は後継機であるC-2がそれらを引き継いで行くのでしょうが、こちらの機体は水色主体の迷彩塗装であることから、緑や茶からなる迷彩が特徴のC-1が元気に空を飛ぶ姿を見られるのは、あと少しのようです。(布留川 司(ルポライター・カメラマン))
日本初の多発ジェット機 川崎「C-1」初飛行 - 1970.11.12 輸送機らしくない飛行披露もあと少し(乗りものニュース) - Yahoo!ニュース
C‐1輸送機は戦後日本が初めて開発した戦術輸送機で12トンのペイロードと高いSTOL性能を有する輸送機である。また前線への輸送で敵のミサイルを回避するための高い機動性も有していた。米軍はこの輸送機を高く評価し、「これで足が長かったらな」と言ったそうだ。航続距離が短くなったのは当時の社会党という政党が、「航続距離が長いと他国に脅威を与える」とケチをつけたためでこの政党は日本最初の衛星を打ち上げたL4Sというロケットに誘導装置をつけると弾道弾の開発につながると文句を言った結果、L4Sロケットは「無誘導重力ターン方式」とか言うややこしい誘導方式で打ち上げられた。最大ペイロード12トン、人員60名(武装兵は45名)程度の能力の輸送機が30機でどんな脅威と思うが、当時はこの政党がバカを言いまくって日本の技術の発展を著しく阻害した。この政党は現在の社会民主党である。そのために小笠原や沖縄が返還されるとペイロードを減らして燃料タンクを増設した特別機を作らないといけなくなった。それでも良好な機動性を生かして展示飛行などではこれが双発の輸送機かと思うような派手な飛行展示を行っている。なんだかんだ言っても中古のC46しか輸送機を持たなかった空自にとっては頼もしい存在だったんだろう。現在ではより大型で長い距離を飛べるC-2が配備されているが、C-1は日本の輸送機開発の道を切り開いた重要な存在で電子偵察機に改造されたり航空機開発の際のテストベッドに使用されていたりもする。「飛鳥」という名前の民間用単距離離着陸ジェット機に改造された機体もある。もしも当時の社会党の余計な横やりがなければ当時適当な戦術輸送機を持たなかった米軍に採用されていたかもしれない、・・(^_-)-☆。
日本ブログ村へ(↓)