扶桑型に次ぐ超ド級戦艦
今から106年前の1916(大正5)年11月12日。旧日本海軍の戦艦「伊勢」が進水しました。「伊勢」は大正期に建造された戦艦のうち、河内型、金剛型、扶桑型に続く「伊勢型」の1番艦です。当初、同型艦「日向」とともに扶桑型戦艦として竣工する予定でしたが、予算の関係で建造が遅れたことで、扶桑型において欠陥として指摘された部分を修正し、別モデルの戦艦としてデビューしました。

竣工時のスペックは全長約210m、基準排水量約3万5300トン。35.6cm連装砲塔を6基備えており、一見すると前型の扶桑型とほとんど変わりませんが、船体中央の3番砲塔が、扶桑型では艦橋と煙突に挟まれる形で配置され、4番砲塔だけが煙突より後ろにあったのに対し、伊勢型は艦橋の直後に煙突があり、3番砲塔と4番砲塔はともに煙突より後方に背負い式構造で配置されているという違いなどがあります。

また伊勢型は太平洋戦争に入ってから、船体後部を大幅に変更し、多くの航空機を搭載した「航空戦艦」に改装されたことでも知られています。改装の端緒は太平洋戦争の開戦半年後に起きたミッドウェー海戦で、旧日本海軍が「加賀」や「赤城」など主力空母4隻を一挙に失ったことでした。そこで、短期間で空母戦力の穴埋めをするために白羽の矢が立ったのが「伊勢」と姉妹艦「日向」の2隻でした。

航空戦艦に改装されたあとは?
「伊勢」の改装は1942(昭和17)年12月からスタート。船体後部の第5および第6砲塔が撤去され、代わりに格納庫や射出装置(カタパルト)、航空燃料庫などを装備。計22機の航空機を運用できる能力が付与されました。こうして、世界でも稀な戦艦と空母の両方の性格を持つ「航空戦艦」にモデルチェンジを果たした「伊勢」ですが、結局搭載する航空機に恵まれなかったことや、そもそも戦力的に中途半端なものになってしまったことなどから、その後も最前線に投入されることはほとんどなく、グアム南方で要塞となっていたトラック島へ補給したのち、フィリピン沖で日米の艦隊が激突したレイテ沖海戦で用いられたのが最後となりました。

レイテ沖海戦で多くの日本戦艦や空母が沈んでいくなか、「伊勢」はなんとか生き残り、呉へ帰着。制海権を失い本土と分断された南方の輸送ルートを確保する「北号作戦」にも携わり、1945(昭和20)年の夏を迎えます。本土に押し寄せたアメリカ軍機は旧日本海軍の要衝・呉にも空襲を行い、「伊勢」もその標的となります。7月24日の空襲で「伊勢」は同型艦の「日向」とともに攻撃を受け大破、そのまま放棄されて終戦を迎えました。損傷が大きかったため、復員船などに使われることなく戦後は徐々に解体されていき、1951(昭和26)年に完全に姿を消します。こうして、世界的にも稀有な「空母+戦艦」という軍艦は、結局ほとんど戦果を挙げることなく姿を消しました。(乗りものニュース編集部)

 

戦艦+空母を実現 戦艦「伊勢」の進水日 -1916.11.12 “二刀流”は最強だった?(乗りものニュース) - Yahoo!ニュース

 

伊勢型は砲塔配置などで防御力に問題があり使い勝手が悪かった扶桑型の改良型として建造された。太平洋戦争時には低速なために活躍の場がなく瀬戸内海に逼塞していたが、ミッドウエイで空母4隻を失った日本海軍は慌てて空母の建造や既存艦艇の空母への改装を計画し始めた。大和型を除くすべての戦艦も空母への改装の対象となり扶桑型の空母改装が計画されたが、工事量や期間などで急場に間に合わないことが判明、丁度5番砲塔の爆発事故で砲塔が使用不能になっていた日向が候補となり、伊勢、日向の改装が始まった。ただ全通甲板の空母に改装するのではなく5番、6番砲塔を撤去して航空機展開整備用の飛行甲板を設けて彗星急降下爆撃機など航空機22機を搭載、発艦はカタパルトを使用するが、着艦はできないので攻撃後帰投した航空機は同航する正規空母へ着艦することとした。要するに空母の航空機の補填用として使用するつもりだったようだ。しかし戦局苛烈な折、搭載航空機は他に転用されて搭載機はなく小沢機動部隊の護衛艦として出撃したが、改装の際に強化した対空兵装を活用して米軍機の攻撃を切り抜けて帰還したが、その後は燃料もなく呉に係留されて米軍機の攻撃で大破着底、戦後に浮揚解体された。扶桑型もそうだが、伊勢型も主砲塔を降ろして機関を増設して高速戦艦として使用すればよかった。航空機の発達で戦艦は過去の遺物で無用の長物のように言われるが、強力な防御装甲と大火力、対空火力を有する戦艦は使い方によっては大きな戦力で被弾するとすぐにダウンする条約型重巡のような脆弱性がない。日本戦艦の中で最も古かった金剛型は30ノットの高速を得て空母の護衛や攻略部隊の護衛、陸上砲撃など縦横無尽の活躍をしている。大艦巨砲、艦隊決戦志向の強かった帝国海軍で戦艦の砲力を減少させるなど許されなかったかもしれないし、資材や工事量の問題もあっただろうが、長門型以下10隻の高速戦艦は相当な戦力になっただろう。航空戦力の前には戦艦は無力と言っても太平洋戦争末期の米軍の圧倒的な航空戦力の前には何物も無力だっただろう。日本が米国と何とか五分に戦えたのはガダルカナル攻防戦終了までの2年間で戦争はそこで決着がついていた。もしも長門型以下の戦艦を高速戦艦に改装していたら戦争前半期の2年間にずいぶん活躍しただろう。でも戦争に勝てたなどと言うことはあり得ないが、残念なことではある、・・(>_<)。

 

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