「二人ともどうしちゃったの。そんなに落ち込んで、・・」
「あんたも明日1日彼女の世話をしていれば分かるわ、あの病気の悲惨さが、・・」
いつもはわんわんキャンキャンやっているクレヨンと知的美人だが、今日は顔も上げずに下を向いたままクレヨンにそう言った。
「私も以前見たことがあるわ。近所に住んでいるおばあちゃんだったけどやっぱり認知症で家を出て何日も歩き回ったりして。踵なんか擦り切れて骨が出ているほどなのにそれでも歩いているんだって。そのおばあちゃん、道で出会うとにこにこ笑って、挨拶したりして。でも何も分かっていなかったのね。そのころはそんなに切迫感はなかったけど怖い病気なのね、認知症って。65歳以上の5人に1人が認知症になるっていうのはテレビのCMで見たけど自分がなったらどうするんだろう。沢田、あんたのところはお金があるんだからちゃんと私を施設に入れてね。いいわね、約束よ」
女土方にそう言われたクレヨンは小さい声で「はい」と応じていた。知的美人は真顔で僕の方を見て「私がそうなったら必ず殺して」と言った。認知症を発症したら心神喪失で嘱託は成立しないから殺人になってしまう。冗談じゃない。そんなことで自分の人生を犠牲にしていられるか。
「お断りだわ。あなただっていいところのお嬢様なんだから自分で何とかしなさいな。そんなときのためにお金を貯めておかないとね。いくら何でも彼女に任せるわけにもいかないでしょう。昔は大家族で何世代も同居していたから世話ができたけど今はねえ、みんな一人だから大変よね。せめて迷惑をかけないように貯金しておかないとね。」
僕がそう言うと全員が黙って頷いていた。その時インタホンが鳴った。受話器を取ると総務課長さんが「風呂を使いたいから開けてくれ」と言う。それは構わないのだが、ここには女しか、おっと僕はハードは女だけどソフトは男だが、いないのでちょっと答えに詰まったが、「その部屋のシャワーでいけませんか」と言うと「手足を伸ばしたくて。おかしなことはしませんからお願いします」と言うのでドアを開けてやった。ただ総務課長が戻るまで奥さんを見ていないといけない。そこで「あんた、ちょっとおいで」とクレヨンを引っ張って行った。総務課長は着替えを持ってドアの前に立っていた。奥さんはソファに横になっていた。
「あんた、ここにいて奥さんを見ていてね」
僕はそう言うとさっさとドアを閉めてしまった。クレヨンは何とも言えない唖然とした表情をして僕を見ていた。
「浴室はここです」
僕は総務課長を一番大きい浴室に案内した。
「申し訳ありませんが、ここにいますので承知してください。社長からの言いつけなので悪しからず」
総務課長はちょっと戸惑った様子だったので「どうぞ遠慮なく。男の裸は見慣れていますから」と言っておいた。でも「見慣れている」はちょっと問題があるかもしれない。僕は男だったんで男の裸は見慣れているという意味で言ったんだけど全く違う意味に取られる恐れがありそうだ。
「失礼します」
総務課長はそう言うと服を脱ぎ始めた。50半ばの老年期に首を突っ込んだおっさんの裸を見ても仕方がないので僕は入口の方に顔を向けていた。シャワーを使う音がしばらく続いていたが、そのうちにバスタブを使う水音が聞こえた。そしてタブから上がる音がして「あの、上がる時はどうすればいいんですか。」と聞かれた。
「スポンジでバスタブをざっと掃除してもらってあとは排水溝の髪の毛を処分しておいてください」
「分かりました」
そう言うとしばらく中で掃除をしている雰囲気だったが、そのうちに、「すみません。上がるのにタオルを取ってもらえませんか」と言う。僕は棚から空に浮かんでいる雲のように柔らかい真っ白なタオルを1枚とると浴室のドアを開けて顔を反対に向けて手を伸ばして渡してやった。「ありがとうございます」と総務課長はタオルを受け取ったが、いきなり腕をつかまれて引っ張られた。驚いて振り返ると素っ裸で目に溢れそうな涙をためた老境に近付いた中年のおっさんが膝をついて僕を見上げていた。
「俺たちは真面目にただ一生懸命に生きてきた。そしてやっとあれが望んだウオーターフロントのタワーマンションを買ってこれから楽しく暮らそうと思っていたのにどうしてこんなことになるんだ。一体俺たちが何をしたんだ。俺たちが何をそんなに悪いことをしたと言うんだ。なにもしていないじゃないか、それなのにどうしてこんなことになるんだ。」
総務課長はそう叫ぶと堰を切ったように号泣し始めた。その声はこの広大なお屋敷に響き渡った。それを聞いて女土方と知的美人が駆けつけてきて風呂場で素っ裸で僕に縋りついて号泣する初老に足を突っ込んだ中年オヤジを見て立ちすくんだ。僕はそっとしゃがんで床に落としたタオルを拾うと総務課長の肩にかけてやった。そうして気持ちが落ち着くまでそっと肩を抱いてやっていた。考えてみれば僕も佐山芳恵にならなければこの男と同じくらいのおっさんになっていたのかもしれない。しばらくすると総務課長も徐々に落ち着いてきたのか僕から手を放して立ち上がった。
「感情的になってしまってすみませんでした。何だかあれに起こっていることが耐えきれなくて。理屈では不運な病気だということは分かっているんですけどそれにしてもあまりにも不憫でどうしようもなくて、・・」
肩にタオルをかけただけで前も隠さずに涙を流し続ける総務課長に僕は言葉もなかった。この人は本当に奥さんを愛していてその奥さんがあんなことになってしまったことが心を引き裂かれるくらいに辛いんだろう。僕もこれまでに身近な人間を何人も亡くしてきたのでそんな気持ちは痛いほど分かった。僕は総務課長の頭を抱え込んで抱いてやった。しばらくすると知的美人が着替えを持って脇に立っていた。
「さあ風邪をひきますよ。着替えましょう」
僕はそう言うとそっと総務課長から手を放して軽く押し戻した。そこに知的美人が着替えを差し出すと「申し訳ありませんでした」と言って着替えを受け取った。
「辛いんでしょう。そんな時は今のように泣けばいいじゃないですか。辛さを涙で流しでしまえばいいじゃないですか。それが恥だなんて誰も思いませんよ。ね、課長さん、死のうなんてしてはいけませんよ。そしてこれからどうすればいいのか考えてあげましょう。課長とそして奥様のために」
僕はそう言うと知的美人の肩を押してそっとその場を離れた。男が苦手の女土方はさすがに近づいては来なかったが、目に涙を浮かべていた。「大丈夫だから任せて」と言って二人を外に導くと着替えを終えた総務課長を浴室から連れ出した。そして「ちょっと飲みませんか」と聞いてみた。酒は飲まないのだけれどこんな時はやむを得ない。総務課長は「えっ」という表情をしたが、意味が飲み込めたようで「はい」と答えた。
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