「総務課長、大丈夫ですか。こんな留置場みたいなところに入れて申し訳ありません。すぐに社長が手配してくれると思いますのでしばらくの間辛抱してください。」
 

総務課長は小さい体をさらに小さく縮込めて申し訳なさそうに口を開いた。
 

「本当にご迷惑をかけて申し訳ありません。妻がこんな状態で自分でもどうしていいのか分からなくなってしまってバカなことをしてしまいました。妻は若年性の認知症で進行が早くてあっという間に自分も周りのことも分からなくなって一人でおいておくと何をしでかすか分からず外に出かけては警察に保護されたことも何度もありました。自分で選んであんなに喜んで買った自分の家も分からなくなって、・・それどころか食事や風呂、洗面やトイレ、着替えなども記憶が曖昧で、・・。もうどうしていいのか私も分からなくなってしまって、・・」
 

そう言うと総務課長はがっくりとうなだれた。確かにそうだろう。男と言うものは普段でかいことを言っても衣食を絶たれるとまことに情けない状態になってしまう。まして奥さんがそんな状態ではもう無条件降伏だろう。
 

「何かあったらそこのインターホンで呼んでください。私とこれが面倒を見させてもらいます。社長も了解済みなのでご安心ください。」
 

そう言うとこれと言う風に知的美人を目で示した。
 

「これって何よ。ちゃんと名前で呼んでよ」
 

知的美人はそう文句を言ったら総務課長もちょっと下を向いたまま笑ってくれた。
 

翌朝、女土方とクレヨンは「何かあったら連絡してね」と言い残して出勤して行った。総務課長は朝食後に必要なものを取りに行くとか言って出かけて行った。出る前に「大変申し訳ないのですが、妻はこのところ入浴をしていないのでできれば入浴させてやってくれませんか」と言われてしまった。自分のかあちゃんなんだから自分で入れてやればと言う意味のことを丁寧な言葉で言うと「私が夫と分からないので嫌がるんです。申し訳ないんですが、女性なら大丈夫と思いますので、・・」と言われてしまった。そうか、夫が認識できないのかと改めてこの病気の重大さを認識させられた。そう言えば奥方、近くによると確かに匂うようだ。この家には風呂はたくさんあるので入浴は差し支えないが、女性ならと言うが、僕は基本女性ではない。そこで知的美人に言うと「私はそんなことできないわ。あなたがやってあげればいいじゃない」とか拒絶されてしまった。
 

「あんたね、自分で介護を買って出たんでしょう。手伝ってよ」
 

僕は知的美人に強くそう言うと部屋に引っ張って行って軽装に着替えてきた。そしてバッグから着替えを引っ張り出すとこの家で一番大きい風呂に奥さんを連れて行って服を脱がせた。「下着を脱いで」と言っても何だかぽかんとしているので面倒くさいのではぎ取ってやった。年齢にしてはきれいな体で何だかこっちが気恥ずかしかった。湯船に湯を張るのが面倒だったのでシャワーだけにして全身を洗ってから髪も洗ってやった。

 

全身と言うと洗うにもいろいろな部分があるのだが、その辺は割愛する。奥さんは別に嫌がるでもなく、そうかと言って自分で洗う訳でもなくじっと立っていた。「椅子に座って」と言えばおとなしく椅子に腰かけてくれるし手はかからないが、入浴と言う行為のことを忘れかけているんだろうか。一通り終わって風呂場を片付けるので知的美人に服を着せてやるように頼んだが、何だかんだ文句を言いながらも結構手際よく衣類を着せてやっていた。

 

部屋に帰ってからドライヤーで髪の毛を乾かしてやって一通り入浴作業が終わった。入浴だけで何だかぐったりしてしまった。介護と言うのは半端じゃないとんでもない作業だと思った。その後簡単な朝食を食べさせたりしていると奥様いきなり立ち上がって「帰る」と言い出した。どこに帰るのか聞いても「家に帰る」と言うが、その家がどこなのか聞いても答えない。これでは一人で外に出したら彷徨してしまうだろう。何とか押し止めていたが、「帰る」と言って言うことを聞かないので

 

「あんた、ここで見ていてね」と知的美人を残してドアをロックしてしまった。知的美人はインターホンで「開けろ」と要求しまくっていたが、ここは旦那が帰るまでは我慢してもらおう。「変なことしないようにしっかり見ていてね」と言うと部屋に戻ってしまった。しかしこんなことを毎日一人でやっていたら死にたくなったりあるいは被介護者の首を絞めたくなったりするかもしれない。部屋に戻るともう何年もやめていたタバコが吸いたくなったが、せっかく止めているのでここはぐっと我慢した。そうこうしているうちに総務課長が帰って来たので知的美人を開放してやった。

 

ドアを開けると飛び出してきた知的美人は「あんたねえ、今度やったら許さないからね」と文句を言った。どうもお下の世話もしてやったらしい。まあいいじゃないか、自分だって男依存症で僕の世話になっているんだから。総務課長に奥方は一応落ち着いていることを伝えて部屋に入ってもらった。そして僕たちは一旦自分の部屋に戻って一息入れた。
 

「でも恐ろしいわね。認知症って。記憶が曖昧になるだけじゃなくて日常一般のことまで分からなくなってしまうのね。着替えたり歯を磨いたり、トイレまで、・・。なんでこんな病気が流行り始めたのよ。」
 

知的美人はちょっと青ざめた顔色でそんなことを言った。
 

「認知症って以前はボケとか痴呆症と言って昔からある病気よ。最近痴呆と言う言葉がいけないと言うので認知症と呼ばれるようになったけどもうずっと前から『うちのじいさんボケてしまって飯を食わせないなんて言って怒ってばかりいる』なんて話はよく聞いたわ。以前は大家族だったから一族で面倒を見たけど今は核家族だからそういう病気の人が出るとほとんど一人で見ないといけないので大変よね。介護に疲れて自殺したり殺してしまったりなんてことが結構起きるみたいね。あの総務課長もそうだけど。介護って半端なことじゃないわ。する方もされる方も命がけよ。大体、65歳以上の5人に1人は認知症になると言うから私たち4人から1人くらい出てもおかしくないわ。そうしたらどうするんだろう。認知症なんかになるならガンにでもなって死んだ方がいいわね。まあそのころには私たちもどうなっているか分からないけど。アルツハイマー性認知症の原因になるアミロイドβというたんぱく質は発症する何年も前から脳に蓄積するらしいからもう蓄積が始まっているかもね、私たちの誰かは。」

 

「変なこと言わないで。やめてよ、そんなこと言うのは、・・」

 

知的美人は珍しく感情を露にして両方の耳を押さえて首を振った。

 

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