太平洋戦争中の日本戦闘機は安定して2千馬力を出すことができる航空機用エンジンが作れなかったことや搭乗員が自分の技量を発揮しやすい運動性の高い機体を好んだことから「高速一撃離脱」と言う世界の趨勢から外れてしまった。その他にも電気系、油圧系、燃料精製技術など周辺工業力のレベルの低さなどもあるが、結果として戦争後期では米国などの航空機のレベルから数年遅れるような状況になってしまった。
それでは陸戦兵器の主力の戦車はと言うとこれも開戦当初は世界の趨勢にさほど遅れてはいなかった。ただ当時の陸軍には戦車を対戦車戦闘に使用するという発想はなかったそうだ。戦車は歩兵を支援し、機関銃座などを潰すためのものとして主砲は短砲身の榴弾砲、装甲は対機関銃弾防御程度のものだった。相手の戦車は戦車ではなく航空機で対抗するというのが当時の陸軍の考え方でそのために地上攻撃機を多数装備していた。
それがノモンハンでソ連の戦車に撃破され、太平洋戦争初期に鹵獲した米国のM3軽戦車に対して当時の主力の97式中戦車の57ミリ榴弾砲では威力不足ということで一式47ミリ戦車砲を搭載した97式改中戦車や一式戦車が生産されたが、米国のM4に対してはこれも威力不足ということで一式戦車の車体にフランスシュナイダー社製の75ミリ野砲を改造した75ミリ砲を搭載した三式中戦車やスエーデンの75ミリ高射砲を改造した75ミリ戦車砲を搭載した4式戦車などが制作されたが、一式、三式戦車とも海上交通路を押さえられた戦争末期の登場で国外に持ち出すことができず海外に派遣された事実はないそうだ。4式戦車は試作段階で終戦となっている。
4式戦車は装甲や主砲の威力ではM4に匹敵すると言われたが、装甲、火砲、エンジン、トランスミッション製作技術などは米国に遅れており、兵器としてのレベルではM4に劣ると言われている。日本陸軍は貧乏で何でもかんでも豊富に取りそろえることはできなかったので戦車はトーチカなどの撃破のための歩兵支援兵器として扱われた。それでも日本も大型の戦車の開発をしていたことは事実だが、これを断念させたのは貧弱な日本の輸送交通システムだったという。当時の日本の道路は舗装された道路はほとんどなく鉄道も重量物を運搬できず、港湾に至っては大型の戦車を吊り上げられるような重量物用のクレーンもなかったそうだ。そんなこんなで日本の戦車は小型軽量に甘んじざるを得ず、またその生産数も限られていた。
日本最後の4式中戦車にしても砲塔の一体鋳造ができない、主砲は相応の威力があったが、スエーデンのボフォース者の高射砲のコピーでM4中戦車と正面から撃ち合うには威力不足、そして生産数も限られていたという。戦争後半に3式や4式中戦車が実戦配備されたとしてもそれまでは待ち伏せで側面や後面を狙って撃破していたのを何とか正面から撃ち合えたという程度で戦局がどうこうなんてことは間違ってもなかっただろう。戦争末期には米軍はドイツ重戦車対策に90ミリ砲を装備したM26パーシング重戦車やM4A3E8などの長砲身76ミリ砲を装備した新型戦車を大量に配備しただろうから質量ともに全く勝ち目はなかっただろう。
国土が狭く、資源もなく、工業力も技術レベルも低かった当時の日本だが、何とか戦車を作り続け、戦後に61式から始まり、74式、90式、10式とつなげて世界のレベルを凌駕する戦車を世に送り出すようになった。61式中戦車を作る際には埋めておいた戦中の資料を掘り出して参考にしたなんて話もあるが、手っ取り早く輸入で済ませずに技術開発を継続した結果が戦後75年を過ぎて立派に実ったことになる。太平洋戦争では米軍にコテンパンにやられた日本戦車だが、その技術は受け継がれて成果を出している。技術にとって継続は最大の力になる。手間がかかるとか買った方が安いとか言って安易な方法を取ることが技術にとって大きなマイナスだし、国家にとっても不利益になるということだろう、‥(^。^)y-.。o○。
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