NHK・BSプレミアムでドキュメンタリー『Black Samurai ~信長に仕えたアフリカン侍・弥助~』が放映された。今や弥助はアニメにもなるなど、関心が非常に高い。改めて弥助について考えてみよう。
■弥助とは
弥助とは、天正7年(1579)にイエズス会の巡察使・ヴァリニャーノが日本にやって来た際、インドから連れて来た黒人の使用人(奴隷)である(『日本教会史』)。弥助の出身地は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領の東アフリカだったといわれている。それ以上の詳しいことが不明なのは、仕方がないだろう。
■織田信長との謁見
織田信長が弥助に会ったことは、信長の一代記『信長公記』に記されている。天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは弥助を伴って、信長と面会すべく本能寺を訪れた。初めて弥助を見た信長の感想は、以下のとおりである(『信長公記』)。
きりしたん国より、黒坊主参り候。年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく、かの男健やかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり。
この記述によると、弥助の年齢は26・7歳で、皮膚は牛のように黒かったという。しかも体は丈夫で力が強く、10人の男の力にも匹敵したという。信長は、大いに弥助に関心を示した。なお、『家忠日記』には、「タケ(丈)ハ六尺二分」と書かれているので、弥助の身長は約1.8mだったと考えられる。当時の日本人の体格(男子の平均身長は約160cm)からすれば、かなりの大柄だったようだ。信長は初めて黒人を見たこともあって、最初は体に墨を塗っているのではないかと考えた。今まで見たことがなかったのだから、いたしかたないだろう。そこで、信長が弥助の体を洗わせたところ、いっそうその肌は黒光りしたという。
■評判となった弥助
弥助に関心を抱いたのは、信長だけではなかった。京都市中では弥助の噂が広がり、やがて見物人が殺到するような事態となった。それどころか、人々は弥助を見るため、喧嘩をするようなありさまだった。同時代に活躍した絵師の狩野内膳は、「南蛮屏風」の作者として知られている。「南蛮屏風」のなかでは、傘をさす黒人の姿が描かれている。これが弥助か否かは不明であるが、誠に興味深い。もともと好奇心旺盛な信長は、大いに弥助のことを気に入り、ヴァリニャーノに頼んで譲ってもらった。信長は弥助を武士として身辺に置き、将来的には城持ちにまで引き立てようとしたという。また、信長は弥助に邸宅と腰刀を与えたとも伝わる。
■本能寺の変と弥助
天正10年(1582)、弥助は信長をお供して、本能寺に宿泊していた。しかし、同年6月2日、突如として明智光秀が本能寺を襲撃し、信長は自害に追い込まれた。光秀が本能寺を襲撃すると、弥助は信長の嫡男・信忠の居所だった二条新御所に急行し、光秀の謀反を知らせた。そして、弥助は二条新御所で明智軍と交戦したが、最後は奮闘虚しく捕らえられたのである。光秀は弥助の処分について、黒人(弥助)は動物のようなもので何も知らず、また日本人でもないので殺すことはない、と明言した。結局、弥助は南蛮寺に送られ、命だけは助かったのである。その後、弥助の動静はまったくわからない。
■ワールドワイドな時代
当時、ポルトガルはアフリカに進出し、黒人を捕らえて奴隷としていた。弥助もその一人である。弥助は、たまたま信長に気に入られたので、われわれの知るところになった。もしかしたら、弥助以外にも、宣教師に日本へ連れてこられた黒人がいたかもしれない。なお、ポルトガルの宣教師とともに商人も日本にやって来たが、豊臣秀吉の時代になると、ポルトガルの商人は日本人を奴隷として購入し、東南アジアなどで売買していた。こうした時代背景があったことも忘れてはならないだろう。
【戦国こぼれ話】織田信長が登用した黒人武将・弥助とは、いったい何者なのか(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース
今でこそ日本にはあらゆる外国人がいるが、つい最近までは外国人が珍しい国だった。まして戦国時代となれば黒人と会うということは今で言えば宇宙人と出会うにも等しいことだっただろう。そんな状況でも体に墨を塗っているのではないかと疑い、「洗ってみろ」と言うところなど非常に冷静客観的な対応ではある。さすがは超合理主義者の信長さんではある。多分体格なども小柄な日本人に比較したらずいぶん大きかっただろうし、10人力かどうかは別にしてもそれなり当時の日本人を超えた力もあっただろう。そうした能力を評価して取り立てたのだろう。この弥助と言う黒人はなかなか頭も良かったと言う。この辺も能力があれば出自は問わないという信長さんらしい。そこに行くと「黒人は人間ではなく動物だから放してやれ」と言った光秀とはやはりものの見方や考え方に大きな差があるように思う。行く行くは黒人舞台を作るなんて言うことも考えていたというが、真偽のほどは定かではない。能力があれば出自は問わないという信長さんの超合理的な考え方はうまく回れば効果は絶大だが、それが信長さんの命取りになったところはあるのかもしれない。いずれにしても時代をはるかに超えた人物だったことは間違いない、‥(^。^)y-.。o○。
日本ブログ村へ(↓)