太平洋戦争末期に岐阜県各務原市で世界最速を目指し開発され、1943年に国内最速の時速699・9キロを記録した旧日本陸軍の研究用飛行機「研三(けんさん)」の映像フィルムが見つかった。研三は、陸軍が東京帝国大学航空研究所に開発を依頼し、各務原市の川崎航空機工業岐阜工場(現川崎重工業岐阜工場)で製作された。しかし戦況の悪化で実用化されることなく、戦後に進駐軍によって同市の各務原飛行場で破壊された。同市下切町の岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(愛称・空宙博(そらはく))で8日から始まる企画展で初めて一般公開される。
映像はモノクロで、研三が国内最速を記録した31回目の試験飛行の様子を映した約5分30秒間。映像には、研三が西に向かって離陸し空を悠々と飛ぶ模様や、操縦した同社のテストパイロット片岡載三郎(1911~45年)の着陸後の様子なども収められている。機体を設計した同研究所の山本峰雄(03~79年)が所有していたフィルムで、戦後に他の資料とともに国立科学博物館(東京)に遺族から寄贈された。
旧日本陸軍戦闘機「飛燕(ひえん)」が時速610キロだった当時、1942年に初飛行し31回目の実験で打ち出した国内最速記録は、現在も国産レシプロエンジンの飛行機では最速となっている。速度を上げるために空気抵抗を減らす工夫が機体の各所に施され、ドイツから輸入した液冷式エンジンや胴体の長さに対して短い翼を採用するなどの特徴がみられる。
映像に記録されている研三は研究段階で、現在残っている仕様書などから、当時の新技術だったジェットエンジンを搭載しようとしていたことなども分かった。戦中に極秘で研究されており、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)によって飛行機の開発が禁止されたことから、研究成果が直接生かされることはなかったという。
企画展「スピードを追い求めた幻の翼 研三―KENSAN―」では、国立科学博物館の協力を受けて空宙博が調査した開発の経緯や、研三のエンジン試験で使用した部品の実物なども紹介する。(岐阜新聞社)
この機体もさらに試験を続行すれば700キロを超える速度が出せただろうが、やはり高出力のエンジンがなく、それがネックだったようだ。順調に行けば2号機を作って速度800キロから850キロと言う世界記録に挑む予定だったそうだが、戦局苛烈な折から開発は中止になったという。この機体が打ち立てた699.9キロは現時点でもレシプロエンジン搭載の航空機の速度の日本記録になっているという。しかし、当時欧米では実用機で700キロを超える機体が多く存在したことからやはり日本の航空機技術は最先端からは遅れていたのだろう。その最たるものはプロペラとエンジン、そして燃料や電気系統などだろう。機体は戦後米軍によって破壊されたという、・・(^。^)y-.。o○。
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