現在発売中の「歴史人」5月号では「戦国の城」を特集している。戦国の城の魅力とは、いったいどこにあるのだろうか。

 
太平の世だった江戸時代の城と違い、戦国の城はまさに「戦うための城」であった。
 
応仁の乱は、全国に戦乱を生み、儀礼的な性格を持っていた「館」は、土塁と空堀によって囲まれる軍事的な「城」へと変化していった。

 
まずは、山を切り盛りしてつられた「山城」が出現。土の城であり、土木施設としての防御施設だった。その構造を縄張(なわばり)と言い、兵の駐屯地である曲輪(くるわ)、防御壁としての土塁(どるい)、遮断線としての堀切(ほりきり)で構成されている。

 
戦国時代も後期になると、戦国大名は山頂の曲輪に屋敷を構え、家臣たちも共に居住するようになる。越後の春日山城や出雲の月山富田城など曲輪の数が数百を超えるケースもある。

 
さらに天正4年(1576)に織田信長が築いた安土城は、日本の城郭に革命的変化をもたらした。その特徴は、高石垣、金箔瓦、そして天守である。以後、日本の城はこの要素を踏襲することになる。

 
戦国の城の魅力の一つには、このような「戦う城」から「見せる城」への変化があると言える。


戦うための城の極致は後北条氏の小田原城だろう。街を惣構えで取り込んで長期の籠城に耐えられるように作られていた。戦国時代の城は概ねこの類だったが、信長さんの城は権威の象徴としての城でその発想自体例を見ないものだった。戦国時代の末期から江戸時代の初期には大砲の出現で城そのものの防御力が意味をなさなくなってきていた。江戸時代の城は武士の心の拠りどころ程度だろうか。信長さんは城に拠って戦ったことはない。城どころか自分の領地内でさえ戦ったことがない。安土城も自分の権威の象徴として建てたのであってあの城に拠って戦うことなど全く考えなかっただろう。見学料を取って一般人を城に招き入れたりお盆に城をライトアップしたりしたのも後にも先にも信長さんだけだろう。そんな発想も時代をはるかに超越している。火力兵器の進歩で城自体が防御拠点になり得ないことを見越していたのかもしれない。


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