昨日、「世界不思議発見」で本能寺の変の光秀さんの動機をその子孫の方が、「信長が光秀に家康を討て」と命じたことが原因と言う本能寺ストーリーを解説していた。しかし、この話、お話としては突飛なことから一般受けするのかもしれないが、現実には全くあり得ないと思う。
まず、もし信長さんが家康タヌキを殺そうと思うなら、何も光秀さんの1万3千の軍勢を動員することもない。供回りしか連れていない家康タヌキなんだから信長さんの親衛隊である馬周衆でも使えば済むことだ。その方が秘密が漏れることもなく確実だろう。馬周りの精鋭100か200で済むことだ。
また、光秀さんと家康タヌキの間には事前の合意があったと言うが、それならば家康タヌキは本能寺の変で信長さんが討たれても慌てることなく堺に留まっていればいい。京都でもいいだろう。光秀さんは家康タヌキを殺す気などなかったと言うのだから、・・。重臣まで野盗盗賊の類に殺されながら伊賀の山の中を200キロも逃げる必要もない。その後も家康タヌキと組んで天下取りを進めればいいのにそうした気配もない。
大体信長さんと言う人はバカみたいに他人を信じる人で従うものはそれなりに厚遇したし、家康タヌキのことはけっこう買っていたようなので、あの時点で家康タヌキを暗殺する必要など全くない。また、信長さんは自分から同盟者を裏切ったことは一度もない。浅井、荒木、松永、そして光秀さんの謀反にもそのたびに非常に驚いている。人間関係に無垢すぎるのではないかと思うほどだ。
大体、家康タヌキを討ちとってもその残党に蜂起でもされたらそれを鎮圧する軍勢がない。あと一手、二手で天下を握れるときに自分の軍団内を割る様なことをしても何の利益にもならない。要らない武将なら天下を取った後の統治権を確立する際に追放すればいい。
光秀さんの武将の中には、「京都で家康を討つ」と思っていた者もいるようだが、そうだとしたらそれは自分でそう思い込んでいたか、あるいは信長さんを討つと言うと驚いて逃亡や通報するものが出ることを避けるためにそう言っていたのかもしれない。
未だにこれと言った確証が出てこない本能寺の変なので様々な仮説が出てくるが、ここにも書いたように光秀さんと信長さんは国家統治について全く正反対の考えを持っていた。それでも貧困に苦労した光秀さんが信長さんに従属して国持大名にまでのし上がった。
信長さんと光秀さんの間には様々な意見の対立があったようだが、何よりも自分の領地を長男に引き継いで明智家を繁栄存続させたいと言う光秀さんの願いが根底から揺らぎ始めたと光秀さんにおいて信じるべき理由があって、また、家臣も信長さん討伐に賛成の意を示し、最後に信長さんと信忠さんがわずかな手勢しか連れずに京都に滞在していると言う千載一遇の好機に巡り合って、そこで明智家の未来のために乾坤一擲の勝負を決心したのだろう。
光秀さんは当時としては常識派の武将で領地政策も住民本位の善政を敷いていたという。そういう人だからこそ老境に入り、先がなくなった自分の境遇を思い、一族郎党のために一世一代の大勝負に打って出たのだろう。もしも秀吉君がいなければそれは成功したかもしれないが、・・。
ところで信長さんが光秀さんと密談した際に怒って光秀さんを蹴飛ばしたと言うが、信長さんは短気で意にそぐわないとどこでも誰でも「すぐキック」で蹴飛ばしていたようだ。信忠君もずい分とやられたとか、・・。小姓などもずい分と蹴飛ばされていたらしい。だから周囲の者はそんなことは日常茶飯事と受け止めていたのではないか。たまたまそうとは知らない宣教師がそれを見て驚いて書き留めたのではないか。
本能寺の変の理由は永遠に不明かもしれないが、天下を狙ったなどと言う自分の欲望ではなく、老境に至って家族や家臣思いの強い光秀さんが、人生最後に家族と付き従ってくれる家臣の未来をかけて打って出た最後の大勝負だった。それが光秀さんにとって一番ふさわしいように思う。
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