信長さんと言う人は、状況認識、判断、決断、行動、いずれも人並み外れた能力を持っていた。また、創造力、着想力、先進性、そして経済観念も優れていた。また、文化にも興味を持ち、特に西欧の文化、技術には深い関心を持っていた。苛烈と言うが、人には優しかったのではないだろうか。思考も現実的、合理的、客観的で旧来の因習、前例と言うものを全く意に介さなかった。まさに天才的な戦略家と言うべきで日本史上例がない。不世出の天才だろう。


だが、この人は他人の心を読み、それを掴んで離さないと言った秀吉君的な才能に欠けていたように思う。たとえば、信長さんは、「武将は利益で動く」と言う極めて単純な理解をしていたように思う。浅井長政が謀反を起した際に、「あいつには十分な利益を洗えてある。謀反を企てることなどあり得ない」となかなか信じようとしなかったと言う。松永久秀、荒木村重の場合も、「不満なことがあれば言え」と何度も説得しようとしている。光秀さんには丹波と坂本を与えているから謀反など起すはずもないと全く気にもかけなかったのだろう。


信長さんは家臣の意見を聞くことはなかったと言う。全て自分で見て自分で判断して自分で決断したことをそのまま実行したようだ。これほどの天才から見ればいかに優秀な武将でも物足らなく思えたのかもしれない。また軍事作戦などは情報漏洩を恐れて全く部下には何も伝えなかったと言う。戦術に関してはそれぞれの役割分担を伝えればそれでいいかもしれない。


しかし、統治ということになるとなかなかそうもいかないだろう。配下の武将は旧来の権威、伝統、しきたりにどっぷりと漬かっておそらく信長さんの時代を超えた革新的な思想など理解に及ばなかっただろう。「信長さんの言うとおりに仕えていれば国持ち大名になれるかもしれない。立身栄達がかなうだろう。しかし、(領地を子孫に伝え、家を残すのを至上命題としていた当時の武将にとっては、)子の世代は、孫の世代は、家と領地は保障されるのだろうか。何か失敗があれば、能力の不足があればその場できられるのではないだろうか」と言う不安は何時も付きまとっていただろう。


当時としては高齢で家を継ぐべき長男は幼く、家臣の問題や四国問題で信長さんと意見を異にしていた光秀さんにしてみればそれはより一層大きな不安だっただろう。「織田家生え抜きの重臣である佐久間さんや林さんも要らなくなれば追放される。俺ももう高齢だ。しかも、信長さんと意見を異にするところが大きい。息子は幼少で今の役には立たない。家は、領地は、そして家族や家臣の未来は保障されるのだろうか。この人は一体何を考えているのだろうか。日本の権威や伝統を全て覆そうとしているのだろうか」と、家族や家臣思いの光秀さんは思い悩んだことだろう。


「謀反、いや、そんなことが出来るはずがない。みんな失敗しているじゃないか。仕えていれば今は保障される。でも、未来は、・・・」そして、「中国に行け」と言われる。「近畿方面軍司令官の自分が秀吉が仕切る中国へ、・・。おれもこの作戦が終われば用済みなのだろうか」信長さんに言わせれば、「手元にあるまとまった軍団は光秀さんしかいないのでちょっと向こうで働いてもらおう。四国に行かせるわけにもいかんしなあ。あいつは長宗我部と通じているんで、・・。」とそんな程度だったのかもしれない。


そして光秀さんに千載一遇の機会が巡ってくる。「信長さんと信忠さんがわずかな手勢を連れただけで京都にいる。付近には信長軍団はいない。また、主力は地方でそれぞれ戦闘中で急には引き返せない。ここで信長さんを討っても、「室町幕府や朝廷をないがしろにして天下の覇者になろうとする逆賊信長を討ったと言って、朝廷に認められれば自分がやったことの正当性は確保できる。その後は足利幕府を再興して自分がその要職につけば家も領地も保障される。」と、こんなふうに自分の行為を正当化しようとしたのかもしれない。そして1万3千の軍勢を率いて京都へ、・・・。


しかし、もう一人、旧来の伝統や権威に囚われない人物がいた。そう、秀吉君。この男も信長さんから学んだことを自分なりに理解して行動する男だった。特に迅速な対応とそして人身把握術を、・・。それは光秀さんの理解を超えていた。もしも、信長さんが、もう少し、凡人の思いに心を砕いて必要な事項について周知と言うことをしていたら、本能寺の変は起こらなかったかもしれない。日本史上、例のない不世出の天才は49年の人生を怒涛のように駆け抜けて、そして消えて行った。


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