本能寺の変で光秀さんが動かした兵力は1万3千人、しかし、全てが本能寺攻撃に向かったわけではない。本能寺攻撃に向かったのは斉藤利三が率いる5千人程度、しかも京都からの出口は固めてはいなかったという。この点から見ても準備万端練りに練った計画を立ててやったわけではないと思う。
信長さんの手勢は100人程度、その中で戦闘員というのはせいぜい4、50人程度で戦闘の準備もしたいなければ歯が立つわけもない。仮に信長さんが3千人程度の親衛隊を伴っていたら信長さんに逃走されるという失敗を危惧して光秀さんは謀反は起さなかっただろう。
しかし、信長さんという人物はそういうところは無頓着というか、平気で危険に身を晒している。若い頃にも将軍へのあいさつと京見物に30人ほどを引きつ入れて上洛し、斉藤勢に命を狙われると自分から相手の隠れ家に踏み込んで脅したりしている。
信忠君は、妙覚寺に滞在していたが、京都から逃げることをせずに手勢をまとめて二条城で明智軍を迎え撃って最後は自害した。信長さんなら間違いなく逃げていただろう。この辺りはまだまだ正直過ぎる後継者だったが、仮に信忠君が生き残っても、秀吉君や家康さん辺りを相手に織田政権を維持し得たかは??ではある。
信長さんの遺体は見つからなかったという。外に運び出されて埋葬されたとも言うが、相当に大きな木造建築が焼け落ちてその中に遺体があったとすれば、現代のように消火をするわけではなく自然鎮火を待つだけなのでほとんど完全に燃え尽きたのではないかと思う。
明智軍は本能寺を包囲していただろうし、そこから信長さんの遺体を運び出すのは不可能だろう。また、一部が燃え残ったとしてもそれが誰のものかを特定することは出来なかっただろう。
こうして日本史上、不世出の天才は命を絶たれたが、一方の光秀さんは5日間ほどで畿内を制圧、安土城の信長さんの財産を強奪して部下に与えたり、朝廷に貢いだりして京都の治安を任せるという勅諭を受けている。
秀吉君は中国で毛利と対峙し、柴田さんは越前で上杉と、滝川さんは関東で北条とそれぞれ対峙し、戻ってくるには相当の期間を要すると踏んだのだろう。その間に京都を押えて朝廷を引き込めば勝てるという思いだったのだろう。
本来なら堺にいた織田信孝君や大和の信雄君が兵をまとめてあだ討ちの名目で明智と戦うべきだろうが、信孝君は信長さんが討たれたことを知った部下たちが動揺して逃げ出し、信雄君は安土城に火をつけただけの体たらくで天才の息子の割にははなはだ情けない。
そこに行くと、「これは天下を取るチャンス」と認識した秀吉君は毛利と和睦して急遽軍を引き返している。また、途中例のの天才的人心掌握術で味方を増やし、手勢1万に加えて2万とも3万とも言う増援を得て大山崎の天王山の麓に軍を配置した。
一方、光秀さんは主殺しが嫌われて最も近しい細川親子にもそっぽを向かれ、自軍の中からも逃亡が相次いだという。天王山で秀吉君と対した時は1万6千というが、実際はもっと少なかった可能性もある。それでも一方が山、一方が川に挟まれた狭隘地で出て来る秀吉君の軍を各個撃破すれば勝てると踏んだが、普通は進軍しない川の泥濘地を進軍して来た秀吉軍に押し切られて敗れた。
大山崎は見に行って来たが、川は護岸で整備されてはいるものの確かに山と川に挟まれた狭隘地ではある。この辺も定石重視の光秀さんと勝つためなら手段を選ばない柔軟な思考の秀吉君の差だろうが、人間もって生まれた器を超えることはできないと言うことだろう。一族の未来をかけて一世一代の大博打を打った光秀さんの野望はここに潰えた。
それにしてもこんなことで信長さんという不世出の天才を葬ったのは返す返すも残念である。もしも大阪の陣で信長さんが豊臣方にいれば徳川幕府はなかっただろう。また、徳川15代将軍があのバカ殿ではなく信長さんだったら明治維新は徳川幕府の手によって行なわれていただろう。信長さんがどんな政権を作ったのかそれを見てみたかったように思う。
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