光秀さんは戦国当時としては屈指の秀才武将だった。本能寺の変を起さずにそのまま信長さんに仕えていれば中国、あるいは山陰地方で大大名として残っただろう。光秀さんはとても家族思いだったと言う。40歳までほとんど食うや食わずの生活で奥さんが髪を売って生活を凌いだこともあったと言う。そのために大名になっても決して側室を持たなかったという。信長さんに仕えてから生活が安定して3男4女をもうけたと言うが、非常に家族を大切にしたそうだ。


旧体制を全て破壊して全く新しい支配体制を築こうと言う信長さんと足利幕府を再興して安定社会を作ろうと言う光秀さんとは基本的な思考からして異なっているが、それでも一生懸命全身全霊で信長さんに尽くしたようだ。


比叡山焼き討ちも必死に信長さんを諌めたが、やるとなると徹底的にやったようだ。秀吉君は信長さんの言うことを、「はいはい」と二つ返事で聞きながら実際には女性や子供などは逃がしてやったと言うので自分の裁量で何とかなるところは適当にやっていたようだ。この辺は光秀さんと秀吉君の決定的な差で光秀君はそこまで柔軟な思考は持ち合わせていなかったのだろう。


この功績で坂本を領地として貰い5万石の大名となって坂本城を築城する。領地を持つことが至上命題の光秀さんはさぞうれしかっただろう。その後、丹波の平定を命じられ、長篠の戦、越前一向一揆平定、本願寺包囲戦など様々な戦に従軍しながら苦労して細川藤孝などとともに天正7年にこれを平定、信長さんから感状とともに丹波一国を与えられ34万石の国持ち大名となる。


それと同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属され、光秀さんの丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、「近畿管領」」とも言われる軍団長に上り詰める。


これで押しも押されぬ大大名になった光秀さんだが、出世をするほどに頭の中には信長さんとの意見の相違など様々な問題が巡っていたと思う。特に光秀さんは坂本と丹波に非常な愛着を持っており、この地を何とか自分の長男に継がせたかったようだ。また、領民を配慮した善政を布いていたと言う。


一方、信長さんは天正8年に本願寺と和睦して近畿一円の平定を終えると新政権創設に向けた体制作りをはじめる。天正8年に織田家の旧来からの重臣である佐久間信盛、林秀貞などを追放している。重臣と言うだけで大きな知行を得て働きのない者は容赦しないと言うことのようだ。林秀貞追放の際に24年前の謀反を理由にしているのは信長さんの執念深さと言うが、重臣を追放するには相応の理由が必要でそのために過去の謀反を使ったのではないだろうか。そして畿内には子飼いの親衛隊などから選りすぐった行政官を配置しようとした。


光秀さんはこうした信長さんの方針は重々承知していただろうし、また、家臣の問題、四国政策など信長さんと相容れない問題を抱えていた。そんな時の信長さんの重臣追放は光秀さんには衝撃だっただろう。当時の大名は専制ではなく合議制で光秀さんの家臣からも様々言われていただろうし、信長さんは言ってもいうことなど聞く耳は持たないし、光秀さんには頭の痛い問題だっただろう。


それでも近畿方面軍司令官と言う立場にあればそれなりに安泰という気持ちもあっただろう。当時、50代の後半、一説には67歳と言う説もあるが、戦国時代ではもう高齢の光秀さんは、「何とか長男が元服して領地を継承するまでは、」と言う気持ちがあっただろう。


そんな時に信長さんから、「お前、中国征伐に行け」と言われたのは、光秀さんにとって見れば、「近畿方面軍司令官解任、一武将として中国方面軍司令官の秀吉君の配下になれと言うことか。いよいよ俺も人材整理組か」と大ショックだっただろう。


愛宕神社参拝とか、連歌の話とか、こんなものは後で誰かなつなげたのだろう。「天の下知る」は秀吉君かもしれない。ただ、真面目一方の光秀さんにとっては頭の中は揺れ動いていただろう。「旧領召し上げ、代わりに出雲、石見を与える」も後世の創作らしい。だが、山陰方面の制圧ということなので光秀さんにとっては、「また新たに領地を切り取れと言うのか。生きているうちに長男に領地を継がせたいのに、オレにはもうそんな時間がないかもしれない。」と言うのが光秀さんの本音だったのかもしれない。


「信長さんは京都に少数の部下を引き連れただけで滞在中、信忠さんもわずかな手勢を引き連れただけで京都にいる。周囲に大軍を擁する武将はいない。やるなら今だ。明智の未来をかけて、・・」そして亀山城内でごく一部の武将に打ち明ける。斉藤利三などは信長さんに腹を切らせろと言われていたので大賛成だっただろう。


そして、「敵は本能寺にあり」などということは絶対に言わない。これはあまりにも芝居がかっている。そんなことを言ったらびっくりして逃げ出すものがあるかもしれない。信長さんに通報するものがあるかもしれない。そうなったら全てが終わる。そうして粛々と本能寺に向かったのだろう。要は光秀さんは天下を狙ったわけでもなければ黒幕に指示されてやったわけでもない。ただひたすら自分の一族と領地を守りたかったのではないだろうか。


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