明智光秀さんと言うのは誰知ろう信長さんに反旗を翻し、本能寺で信長さんを自刃に追い込んだ張本人である。光秀さんの出自は明らかではないが、土岐氏明智の支流と言い、斉藤道三に仕えていたが、道三が義龍に殺されて離散したと言う。
その後、浅倉氏に仕え、足利義昭が浅倉氏に身を寄せると義昭に仕えた。義昭は浅倉氏に頼って上洛を試みるが、浅倉氏が動かず、痺れを切らせて信長さんを頼り、そこで信長さんの家臣となったという。
光秀さんは40歳くらいまでは困窮を極めた生活を送っており、信長さんに仕えて500貫の知行を得てやっと落ち着いた生活が出来るようになったようだ。光秀さんは京都の事情に明るく朝廷や公家の儀式や作法にも通じていたことから当初は信長さんと義昭の双方に仕えていたが、その後、信長さんと義昭が不仲になったことから義昭を見限って信長さんの直臣となった。
光秀さんと言う人物は戦国当時の屈指の秀才である。秀才と言うのは権威の元にあって当代の権威を学んで成長する。そのため、光秀さんにとって権威とは足利幕府であり、朝廷であり、そして鎮護仏教であった。そんな光秀さんが目指したのは足利幕府の復権による天下静謐であり、全く新しい体制を築き上げようとしていた信長さんとはその考えの基本において全く異なる。
そして当時の秀才武将がもう一つ目指す大目的は領地の獲得と家名の継承であった。信長さんに仕えた光秀さんは信長さんの考えることが自分とはまるで違うことは分かったはずだ。だが、領地を得て家名を継承するために必死になって仕えたのだろう。
比叡山焼き討ちの際も光秀さんは暴挙だとかなり信長さんに食い下がったようだ。信長さんにしてみれば権威に安住して勝手放題の敵対勢力を叩き潰すだけでそれ以上でも以下でもなかったのだろうが、光秀さんにしてみれば長い伝統と仏教文化を持つ比叡山を焼き討ちにするなどとんでもないことだったんだろう。
それでも領地を得て家名を継承することが至上命題の光秀さんは同床異夢と言った状態でも一生懸命信長さんに仕えたのだろう。最後には丹波一国と近江坂本を合わせた大名までになった。光秀さんは常識人で領国経営も住民に優しく善政を布いていたようで現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあるそうだ。
光秀さんは信長さんと数々の遺恨があったというが、これはほとんどが江戸時代になってから書かれた書物に記載されていることで根拠のないものだという。謀反の1年前まで信長さんを崇敬する書を残しており、謀反を起すような理由は見当たらず、現在に至るも謎のままとなっている。
謀反の動機は、朝廷説、怨恨説、理想相違説、野望説、恐怖説、義昭黒幕説、家康黒幕説、秀吉黒幕説、政策相違説など種々様々に取り沙汰されているが、これと言った決定打はない。まず、朝廷は自分の火の粉が降りかかるようなことは絶対にしない、怨恨も後付が多く、理想が異なるからと言って失敗すれば自分が滅ぶようなことをするとは思えない。
義昭、家康、秀吉黒幕などはフィクションの世界の話だろう。義昭さんは見限った主君だし、慎重居士の家康君がそんな博打を打つわけもない。秀吉君は信長さんに臣従し尽くしていたし、仮にそうだとしても山崎で討たれるまで光秀さんが何も残さないわけがない。それでは何が、・・と言うのは次回に書きたい。
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