信長さんの統治と言うのは基本的に独裁である。戦国大名から徳川幕藩体制に至るまで領主、藩主と言うのはトップでありながら独裁者ではない。大名と家中の有力武将による合議制で大名独裁と言うのはほとんど例がない。天才として類まれな状況認識力、判断力、決断力、行動力を持った者からすれば、ほとんどが前例踏襲の家臣の意見など聞く必要もなかったのかもしれない。あの時代、尾張の一地方武将からほとんど天下を平定するまでに至るには並みの力量では成し遂げられない。


信長さんの理想は誰もが楽しく85歳まで生きることの出来る世の中を作ることだったと言う。「天下布武」の言葉通り、武力によって乱世を平定し、そうした世の中を作ることが信長さんの目標だったのだろう。統治体制は中央集権で土地は国家のもの、それぞれの地方を治めるものとして書く武将を地域ごとに割り振って置く。


しかし、その武将は土地の所有者ではなく国に代わって地域を統治する代官と言った立場で、これは当時の武将の考え方とは大きな隔たりがある。当時の武将の最終目標は領国を所有して家名を残すことだった。


ところが信長さんは国は国家(織田政権)のもの、武将は政権の指示に従って領国を管理することという中央集権近代国家の発想だったようなので信長さんがもう少し生きていれば世界に先駆けて日本は中央集権国家樹立していたかもしれない。しかしながら、信長さんの発想と各武将との考え方の溝は波乱の要素を含んで残っただろう。


信長さんの性格は超合理主義者で勇猛、積極果敢だが、意外に人情家の面もあり、律儀でユーモアもあったようだ。信長さんは短気で冷酷、残忍と言われるが、これほどの非凡な才能のあった人物が、並みの武将、それでも当時としては第一級の秀才、を見ればじれったくなってかんしゃくを起したり、蹴飛ばしたりしたこともあっただろう。


また、命令が一般の武将の能力を超越していて苛烈と言われることもあっただろう。ただ、信長さんの悪評はほとんどが江戸時代の歴史物に書かれたものでこれは東照神君と呼ばれた家康さんを引き立てるためだったようだ。


家康さんと言うのは戦国時代随一の秀才だが、天才でも何でもないので能力は信長さんとは比較にはならない。残忍というのは一向一揆に対する虐殺や離反したものに対する仕打ちなどを言うのだろうが、対抗する敵勢力を殲滅するのは戦術の基本だし、また、信仰で刃向かう者は殺すしかないことを信長さんは知っていたのだろう。


離反者に対しても実弟の信勝は一度は許しているし、松永久秀は2回許し、荒木村重には3回も、「不足があれば聞くから来い」と言っている。何でもかんでも問答無用ではなかったようだが、それでも聞かなければ一族郎党全てを処刑している。それはこの時代誰でもやっていたことで信長さんだけではない。


親族や近親者にはそれなりに優しかったようで娘を嫁がせる先を自ら選んだり、戦で部下を失ったりすると涙を流して悲しんだこともあったようだ。長距離火力を取り入れたのも戦死者を出させないためとも言う。


家中の規律は厳しいものがあったようだが、これは、「負うべき責任は果たせ」と言うことと自信家の割には世論を気にする信長さんだったそうだから、規律厳正はそんな意味もあったのかもしれない。


信長さんは親族のつながりを過大評価していた節がある。若年期に母親に疎まれ、兄弟に背かれ、実弟を暗殺するなど暗い過去があったせいかもしれないが、浅井長政の離反にも、「あいつは親族だから他人の浅倉を攻めることを一々知らせる必要はない(親族なんだから分かってくれるという思いがあったんだろうか)」と言ったそうだが、結果として浅井に離反されている。


また、信長さんは、「武将は利益で動く」と、これも意外に単純に思い込んでいた節がある。浅井が離反したと聞いた時に、「あいつには北近江を任せてあるんだから不満のあるはずもない。離反なんてうそだろう」となかなか信じなかったそうだ。また、松永や荒木にも、「不満なことがあるなら何でも言え」と何度も説得を試みている。


並みの秀才からすれば天才の考えることはあまりにも自分の理解からかけ離れていて漠然とした不安があったはずだ。そういうものに対する配慮が見られないのは信長さんの人であるが故の欠点だったかもしれない。結果としてはそれがこの不世出の天才の命を縮めることになったように思う。


信長さんはイベント好きで、祭りなどを庶民と一緒に楽しんだ他、相撲、能なども好んだと言う。また囲碁、和歌などの素養もあったという。茶の湯は領地の代わりに武将に与える褒賞として広めたと言うが、家督を信忠に譲った際に茶器だけは持って言ったというので本当に趣味として好きだったようだ。尾張の田舎者と蔑む向きもあるが、なかなかの風流人であったようだ。また、安土城を見学させて一人百文を見学料として自ら徴収したり、安土城を提灯やたいまつでライトアップして見せたり、興行師としての才能もあったのかもしれない。


信長さんのイメージを最初に歪めたのは秀吉君だが、この男は人あしらいには天才的な才能を有していたが、発想力、創造力と言う点では信長さんにはるかに及ばない。信長さんの元にあってその発想力を得て何かを実現する着想には優れたものがあったが、ナンバー1の器ではなかったように思う。頂点に立ってからのバカさ加減は本当に同じ人物かと思うほどだ。朝鮮、明への侵攻も信長さんの遺志を継いでと言うが、実際に信長さんが海外遠征を計画していたと言う記録はない。秀吉君は頂点に立ってから信長さんを超えようとしたが、自分でも信長さんを超えることは不可能だと悟っていたのかもしれない。秀吉君は頂点に立ってからは自分が成り上がることしか考えてはいないが、もう少し政権固めに意を用いていたら豊臣政権が続き、徳川の出番はなかったかもしれない。本人も自分が信長さんを超えられないことは自覚していたのかもしれない。いずれにしても秀吉君と言う人物はあまり好きではない。特に頂点に立ってからの秀吉君は狂っているとしか思えない。


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