信長さんの経済基盤は領地から収穫される米とともに貨幣経済に重きを置いていたようだ。これは父親の信秀さんが津島と言う貿易港を押えて莫大な利益を上げていたことによるのだろうが、信長さん自身も、道路整備を行い、関所を廃して商品流通の振興を図り、座を廃止して自由競争経済政策を採るなど経済政策に重きをおいている。


当時は領土を広げて石高を上げるのが一般的だったが、信長さんは選銭令を発布して良貨と悪貨の交換比率を定めたり、副将軍職よりも堺の管理権を取るなど貨幣の価値を重視していたようだ。


また、キリスト教宣教師などから情報を取り入れ、技術革新にも熱心だったと言う。一般に当時の大名は城を防衛拠点として整備し、領内の道路などは敵の侵攻を阻むために曲がりくねらせたり道幅を狭くしたりわざと川に橋を設けなかったりして敵の侵攻を阻むような造りになっていたのに対し、6間と言う幅の広い真っ直ぐな道を整備し、途中に休憩所や並木を整備したり交通の利便性を図っていた。


また、城郭は防衛拠点と言うよりも自身の権勢を示したり、あるいは外交を行なう迎賓館のような造りにして城を防衛拠点とは考えていなかったようだ。この辺りも独自の感覚で城というものの意義を捉えていたようだ。安土城も10メートルほどもありそうな大手道が140メートルも続いている。その先はちょっと入り組んだ城造りにはなっているが、守り易そうな造りではない。本丸には清涼殿を模した建物があって、天皇を足下に住まわせようとしたと言う非難があるが、これは迎賓館のようなものだろう。信長さんは天皇の権威についても、「庇護してやらなければ生きていけないような無力な朝廷だが、その権威は想像以上に侮りがたい」と朝廷の権威もよく理解していたと言う。


信長さんは西洋の文化にも大いに興味を示して宣教師などからいろいろと聞いたり贈り物をもらったりして喜んでいたらしい。目覚まし時計をもらった時は散々見てから、「日本の技術では壊れた時の修理が大変だから、・・。」と言って返したそうだが、非常に残念そうだったと言う。


また、地球儀を見せられて地球が丸いという説明を受けた時もすぐに納得したと言う。当時の日本では地球の概要を知る者は一人もいなかったが、地球が丸いということを過ぎに受け入れられると言うのはよほど客観的で柔軟な思考の持ち主だったのだろう。


何よりも驚くのは黒人を見せられた時に周囲が腰を抜かさんばかりに驚いたのに対し、信長さんはじっと観察してみて、「洗ってみろ」と一言言ったそうだ。当時の人間が黒人に出会うと言うのは、現代人にとって見れば、宇宙人か妖怪物の怪の類と遭遇するのと同じくらいの衝撃だろうが、冷静に観察して、まず、顔料でも塗ったのではないかと疑い、本当に肌の色が黒いことを確認するとすぐに自分の小姓として採用したと言う。


弥助と呼ばれた黒人は大男、当時の日本人に比べれば、で力が強く、信長さんはボディガードとして重用し、将来は一国の国主にするつもりだったという。弥助も信長さんに忠誠を誓い、本能寺の変でも最後まで明智勢を相手に奮戦したと言う。信長さんは身分や門地に囚われず庶民も分け隔てせずにつき合っていたと言う。最後に明智勢に捕らえられた弥助を見た光秀さんは、「こいつは人間ではないから解き放て」と言ったそうだが、この辺りは天才と秀才の決定的な差なのかもしれない。このことはまた跡で詳しく書きたい。


宗教に対しては、信長さん自身は全くの無神論者で宗教に関心を示した様子はない。神社に寄進をしたりしているが、それは多分部下の士気を高めるため、あるいは住民の評判を得るためなどで実際に神仏を信じていたとは思えない。比叡山焼き討ちの際も必死に諌める光秀さんに、「神仏は木と金で出来ていることを光秀に教えてやらないといけない」と言っていることや石仏を城の石垣や階段に使用していることからも作られた偶像には一切の関心を示していない。


信長さんは、比叡山の焼き討ちや本願寺との10年にわたる戦争、一向一揆との対決、高野山包囲戦など宗教団体と戦っているが、宗教自体を弾圧したわけではなく、対抗する勢力が宗教団体だったと言うだけで、宗教活動に対しては何ら弾圧はしていない。比叡山の焼き討ちにしても何度も中立を保つよう呼びかけているが、それを聞かなかったから殲滅しただけの話で特に宗教を弾圧したわけではない。


一向一揆も越前や長島で何万と言う一揆に加担した者を殺戮しているが、これは敵対勢力を徹底的に殲滅すると言う軍事的合理性であり、また、この時代は誰もが似たようなことをしていることからこれを以って信長さんが残虐な人間とは言えない。ただ、散々手を焼かせて自分の親族郎党を多数殺害した一揆加担者に対する恨みと言うものはあったかもしれない。


これは自分に刃向かった浅井久政・長政、浅倉義景の頭蓋骨に薄濃にして飾ったことも残虐性の現われというが、当時は討ち取った敵の首を持って帰り、女性がその首級を洗って化粧をして首実検をするのが当たり前の時代だったのでこれも残虐とは言えない。むしろそうすることで三将の菩提を弔ったと言う説もある。本願寺勢とも和睦後はこれを弾圧したと言うことはない。


安土城築城後は総見寺を城内に建立し、そこに大石をおいて自分を神として崇めろと言ったそうでこれを以って信長さんは神になろうとしたと言う向きもあるが、木と金で出来た何の利益もない神仏を拝むなら実利を与えてやるから自分を拝めと言う、ある意味、人心操作の手法であり、信長さん自身が本気で神になろうとしたわけでもない。いずれにしても信長さんと言う人物が時代を超えた柔軟な思考を持っていたことは事実だと思う。


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