翌朝目を覚まして夫が眠っているベッドを見ると昨夜と同じようにテリーさんが椅子に座って編み物をしている姿が目に入りました。そんなテリーさんを見た時夫は本当に私には手の届かないところに行ってしまったように思いましたが、自分の気持ちはかえって軽くそして穏やかになっていました。
結局私にはこの運命を受け入れてしかも夫に残された時間を穏やかに過ごさせてやれるような勇気はなかったのだということが分かっていたのかも知れません。いえ、もっとはっきり言えば私はその運命を知った時、ただうろたえて本当なら私が守ってやらなければいけない夫にすがりついてかろうじて自分を支えてきたのです。
もしも私に本当に勇気があったのならきっとイギリスになんかに夫を連れて来なかったと思います。負け惜しみではありませんが、私はテリーさんと会って話をしてみてこの人になら夫を渡してもいいのじゃないかと思いました。
私達は自分を飾り立てる色々な道具を持っていたのかも知れませんが、生きるということについて何か信念といえるものが本当にあったのかと言われれば疑問符がたくさんついてしまいます。でもテリーさんは自分の生きてきた時間の中で、ただ運命を受け入れてその運命に翻弄されるのではなく何か信念をつかんだのだろうと思います。
私も決していい加減に生きてきたとは思っていませんでしたが、本当に自分の人生を変えてしまいかねない状況に対して私が身に纏っていた武器はあまりにも無力でした。結局、私とテリーさんでは生きることに対する切実さとそして優しさが違ったのでしょう。自分にはどんなにも優しくなれるのが私を含めて普通の人間なのですが、他人に優しくなることは難しいものです。
そんな意味でテリーさんは私よりもずっと神に近い人なのかも知れません。
数日後、私達はテリーさんのフラットに移りました。夫の病室にあてがわれたのは天井の低い屋根裏の小さな部屋でしたが、夫はとても満足そうでした。そしてテリーさんは夫の側をほとんど離れることなく付き添っていました。
二人はまだ知り合ってから半年も経っていないはずなのにもう何十年もの間ずっと生活を共にしてきたかのように打ち解け合い信頼し合って生きているように見えました。もう私などが入り込む余地はないと思ったのですが、テリーさんも夫も私を疎外するようなことはありませんでした。
特にテリーさんは何時も私に気を使ってくれました。でもそれはあの人には当たり前のことで特に気を使っていたわけではないのかも知れません。
夫はそれから五か月後に腫瘍に浸潤されて破れた血管からの出血で亡くなりました。随分吐血はしましたが、テリーさんに抱かれたまま、穏やかな最期でした。
「これで神に会えるかな。もしも会えたら、・・・・」
それが夫の最期の言葉でした。神に会えた時にどうしたいのかを言いたかったのか、それとももっと別のことを言いたかったのか結局分かりませんでした。その後夫はテリーさんと私を見て微笑みましたが、それが夫と意思を通じ合った最後でそれきり夫の意識は戻りませんでした。
テリーさんに手伝ってもらって色々な後始末をしてから日本に帰ってくると周囲の、特に夫の親戚の批判に耐えなければなりませんでした。私のしたことが身勝手だというものでした。私は夫に言われたとおりイギリスで火葬にした夫の遺骨の一部をテリーさんに預けて残りを南アルプスの上空で散骨しました。葬式は告別式だけを本当の近親者だけで行って後は何もしませんでした。
私自身は普通にお葬式を出すことには特に拘りはありませんでした。あれは残った人のための儀式だと思っていましたから。でも夫は大勢が集まって飲み食いをしたりしてがさがさするあの儀式を嫌がっていました。
まさかこんな形で自分の葬式を向かえようとは思っていなかったのでしょうが、『葬式なんかしなくてもいい。本当に別れを惜しんでくれる人だけがそっと見送ってくれればいい。』と口癖のようにいっていました。
病気になってからは私が嫌がったので結局そんな話をすることもありませんでしたが、私は以前に夫が話していたようにしてあげたかったのです。勿論これはテリーさんにも相談した上のことでしたが。
そして話は最初に戻ります。全部終わってから自分がなくしたものの大きさに初めて気がついて、悲しみに打ちのめされ、のた打ち回っていた私の体の中で美絵が動いたのです。今になって思えばただの胎動だったのですが、その時私は未だ見たことのない子供に「しっかりしてよ。」と叱られているような気がしました。
夫が消えかかった命を奮い立たせて私の中に繋いでくれた命、その命が私の中に宿ったことがはっきりと分かった時夫は寂しそうに笑いました。
「宿しただけで何もしてやれないな。顔を見てやることも。」
夫はこれだけで他には一切何も言いませんでしたが、自分の命が消えようとしている時に自分の子供が出来たことを聞かされるのはきっとやり切れない思いだったことでしょう。
夫と私とそして美絵の三人にふりかかったこの運命は私達三人にとってそれぞれ意味は違っても受け入れなければいけない運命だったのだと思います。ただ夫だけがその運命を少しでも自分の納得のいくものに変えるために必要な時間さえ与えられずにひたすらその過酷な運命を受け入れることだけを強いられたのでした。
そのこととそして美絵のこれからのことを考えると私はただ悲嘆に暮れて泣いてばかりいるわけにはいかなくなってしまったのです。
もうすぐ二歳になる美絵は父親と一緒にいる他の子供を見ると少し不思議そうな顔をして私を振り返ることがあります。そんな時私も少し複雑な気持ちになります。本当にこれでよかったのかと。でも今、私は夫とそして美絵の二人の運命とそれぞれの思いを背負っているのだと。それが私の運命なら私もそれを受け入れて生きていこうと思うのです。
テリーさんはその後スコットランドの田舎に小さな農園付きの家を購入して、そこで子供達と一緒に生活しているそうです。生前夫がイギリスにいる知人のジャーナリスト数人に手を回していたらしく、今テリーさんはある地方紙を発行している新聞社に就職してそこで働いているそうです。
そして彼女のことが雑誌や新聞にも取り上げられたことから公私の支援も受けられるようになり、もう売春などしなくても子供達と一緒に暮らすことが出来るようになったそうです。
私も子供に手がかからなくなってきたのでそろそろ本格的に仕事に復帰しようとは思っていますが、最初に一度テリーさんを日本に呼んで日本でもメディアに取り上げてみたいと思っています。彼女も夫の運命とその思いを背負う仲間同志ですし、何よりも私の生き方を大きく変えてくれた人でもあるのですから。