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 こうして夫が亡くなるまで、夫と私とテリーさんの奇妙な共同生活が始まったのです。正確に言えば、夫とテリーさんと、そしてオブザーバーの私の三人と言った方がいいのかも知れません。しばらくすると、夫は思い出したように電話を取って、フロントにベッドをもう一つ持ってくるように頼みました。

 ほんの少し前に始まったこの生活は、もうずっと昔から変わらずに続いているかのように自然に流れていました。誰もがこの、普通に考えれば異常な生活に、何の違和感も持ちませんでした。夫と、そしてテリーさんは当然なのかも知れませんが、強い違和感を持ってしかるべき私までが、周囲の時間の流れに任せて、この生活の中で、ごくごく自然に流れていました。

「テリー。」

 夫がテリーさんを呼びました。バッグの中から編み棒と毛糸球を取り出して子供用らしいセーターを編んでいたテリーさんが手を止めて顔を上げました。

「何も考えないで精一杯生きることにしたよ。自分が生きている間は。」

 夫の言葉にテリーさんは何も言いませんでしたが、笑顔で頷きました。その笑顔に安心したように、夫はまた雑誌に目を落としました。テリーさんもそれ以上何も言わないで、また編み物を始めました。私はただ黙って二人の様子を見守っていました。

 その時、何となく私の役目は終わったように思いました。そして役目をテリーさんに引き継いだことに、特に何の抵抗も感じませんでした。それよりもテリーさんと夫の様子を見ていると今までずっとざわついていた心が穏やかに凪いでいくように思えるのでした。

 その夜、夫はテリーさんに添われて穏やかな表情で眠りに就きました。夫にしてみればずいぶん久し振りの平和な夜だったのかも知れません。夫が眠りに就いた後、私は先にシャワーを使い終わって、部屋で髪を梳いていました。そこにテリーさんがシャワーを終わって出てきました。

 テリーさんは何も身に着けないで私の前にその裸身を晒しました。こちらの人は部屋では何も身に着けない人が多いのか、それとも彼女自身の習慣なのか、私には分かりませんでしたが、その体を見て私は息を呑んでしまいました。

 錯覚でも何でもなくテリーさんの体が一瞬輝いたように見えたからです。夫はこの人を売春婦と言っていましたが、テリーさんの体は大勢の男達の欲望に任せたようには見えませんでした。均整の取れた体に透き通るような白い肌、そして髪と同じ輝くような金色の体毛、すべてが考え抜いて造られたように見事に調和していました。

同じ女性の私が見ても溜め息が出てしまうほど、彼女は美しく見えました。

「あなたの髪、とても綺麗。夜の闇のように黒く輝いていて。」
 私が彼女の体に見とれていると彼女は私の髪を見てそんな風に褒めてくれましたが、私にはそれがかえって恥ずかしく思えました。

「私なんかもう若くないのに恥ずかしい。あなたこそとても綺麗。溜め息が出てしまうほど。」

私はそう言った後で、ついもう一言つけ加えてしまいました。

「あなたのその髪、染めているの。」

 私は彼女の体毛が輝くような金色だったことを不思議に思ったのです。欧米人でも体毛が金色の人は珍しいと聞いていたことを思い出したからでした。

『もしかしたら仕事が仕事だけに染めているのかもしれない。』

 ふとそんなことを思ったのは計算し尽くされたように美しく均整の取れたテリーさんの体に嫉妬を感じたからでした。そしてそれがつい口から出てしまったのです。

「何も手を加えたりしていません。この体は神からいただいたもの。手を加えることは、神の意思に背くことになります。」

 テリーさんはごく当たり前というように答えました。その言葉には私のような見栄も意地も気負いもありませんでした。

「あなたはとても綺麗。だけど女性だからもっと美しくなりたいって、そういう気持ちだってあるでしょう。」  

 テリーさんの何の欲も感じられないあまりに自然な態度に私はついまた余計な言葉をつけ加えてしまいました。テリーさんに会った時すべて洗い流されたはずの私の悪意が最後の一線に脚をかけて踏み止まっていたのかもしれません。

『美しくなりたくない女なんているはずがない。このひと女だって、どこかにそういう気持ちがあるはずだ。どんなに聖人を気取って見ても、俗人的な考えは持っているだろう。』

見栄、虚栄心、敵意、そんなものが私の正体だったのかもしれません。

「そう、美しくなりたくない女性なんていないと思います。」

テリーさんは笑顔を浮かべながら答えました。

「それじゃあ、あなただってそうでしょう。もっと美しくなりたいでしょう。」

 テリーさんは子供を諭す時のような顔で私を見詰めていました。その笑顔はあくまでも澄み切っていて曇ったところはどこにも見えませんでした。そして優しく温かいその表情は私のちっぽけな意地悪など簡単に打ち砕いてしまったのです。

「ええ、それは勿論です。でも、あなたが言う美しさってどんなものなの。もっと多くを望もうとすれば人は却って醜くなることもあります。人にはそれぞれ神から授かった分というものがあると思います。自分が授かった分に満足して暮らすことが何よりも一番美しく生きることだと思います。」

 こう言われてしまうと私にはもうほとんど返す言葉もありませんでした。それでも私は引き下がろうとはしませんでした。テリーさんが腹立たしかったのではなく素直になれない自分が腹立たしかったのです。私はもっと意地の悪いことを口にしてしまったのです。

「あなたは本当に売春なんかしているの。どうしてなの。」

 普通ならこんなことを言われれば動揺しないはずはないと思ったのですが、テリーさんの穏やかな笑顔は変わりませんでした。

「売春は悪いことでしょう。」

私は追い討ちをかけるように言いました。

「ええ、確かに悪いことです。でも私が汚れることで救われる者がいるのなら私はそれで満足です。そのことで罰を受けろと言うのなら私は喜んで受けるつもりです。」

テリーさんが私に答えた時、また彼女の体が輝いたように見えたのです。

「あなたの信じる神が『そうしなさい。』とあなたに言ったのですか。」

私はまだ食い下がりました。

「神はそんなことを言ったりはしません。私が自分で考えて自分にできることをしているだけです。」

「あなたは神と言うけれど本当に神が存在すると思っているのですか。」

これで私は自分の切り札を切ってテリーさんの前に突き付けたつもりでした。

「神は存在します。私は何時も神とともにあります。」

 テリーさんは私が最後の切り札と思っていたものを突き付けても何も変わりませんでした。私はさらに気負ってテリーさんを問い詰めようとしました。理論的に神の存在など誰も証明しようがないという確信があったからです。

「どうして神が存在するとそんなに自信を持って言えるんですか。」

 私は心の中で自分なりに勝算を弾いて『勝てるかも知れない。』と思っていました。こんな時になってもまだ私は勝つとか負けるとかそんなことに拘っていたのです。でもテリーさんの表情は変わりませんでした。少しも変わることのない穏やかな温かい目で私を見詰めていました。そしてそれが当たり前のように言いました。