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「きっとあの人、誰か適当な女と出かけたのよ。そのうちにどこかで取材でもしているなんて連絡してくるんだわ。」

「もしもそうだとしてもそれならそれでいいじゃないか。あいつの好きにさせてやればいい。」

秋本さんは窓の外に目を向けたまま動きませんでした。

「もう時間がないんだよ。あいつには。何をするにももうそんなにあいつの時間は残されていないんだよ。」

 やっと私も何かしら夫に異変があったことに気がつきました。でもそれが何なのか、まだよく理解できませんでした。

「どうしたの。あの人に何かあったの。はっきり言ってよ。」

 私は苛立ちに不安が重なって秋本さんに詰め寄りました。でも秋本さんはいくら私が詰め寄っても物憂げな表情を崩さずに窓の外に目を向けたまま黙り込んでいました。

「ねえ、何しに来たの。話があるんじゃなかったの。だから来たんでしょう。もしも何も話すことがないんだったらもう帰ってよ。私、疲れているの。休みたいのよ。」

 私の苛立ちは頂点に達していました。着ていたワンピースを乱暴に脱ぎ捨てると下着姿のまま脱いだワンピースを拾って椅子の背に投げつけました。 

「そんなに苛立っている君に今話してもいいものか考えていたんだ。」

秋本さんはやっと私の方に向き直って口を開きました。

「君がそんなに苛立っているのなら今日はやめてまた次の機会にしたほうがいいのかも知れない。」

 やっと私の方を見てくれたと思ったら秋本さんは立ち上がって帰ろうとしました。それを見て私は慌てました。夫に何か異変があったらしいことは分かりました。冷静に考えれば医者の秋本さんが夫の異変を告げに来たのですから、夫が何か重大な病気に罹っていると考えるのが自然なのでしょう。

 でも夫と秋本さんは他の生活でも色々深く関わっているのでもっと何か別のこと、そう私と秋本さんのことだと私は勝手に解釈していたのです。

『多分、秋本さんが夫に私達のことを話したのに違いない。それで夫は誰か適当な女性を連れてイギリスに行ったんだろう。』

私はそんなふうに呑気に考えたのです。

『とにかくどんな話になったのか聞いておかなければもっと苛立ってしまう。』

 私は秋本さんに謝りました。そして「静かに落ち着いて話を聞くから。」と約束して秋本さんをもう一度座らせました。

「コーヒーでも入れましょうか。それともビールか何か飲む。」

私はバスローブを羽織りながら秋本さんに聞きました。

「車だから酒はいい。」

秋本さんはもう一度ソファーに座り直しながら私の方を見上げました。

「いいじゃない。飲んだら泊っていけば。」

 秋本さんは何も答えませんでした。私はキッチンに行ってビールと適当なつまみを取って戻りました。そしてテーブルの上に置くとビールのプルトップを切って秋本さんの前に置いたグラスに注ぎました。

「あの人がどうかしたの。さっきから暗い顔してどうしたのよ。」

 私は自分のグラスにビールを注ぎながら秋本さんに聞きました。秋本さんはビールの入ったグラスを見詰めていましたが、意を決したようにグラスを取ると一息に飲み干しました。そして空になったグラスを『もう一杯注げ。』と言うように私の方に突き出しました。

 私は黙って秋本さんのグラスをビールで満たしてやると秋本さんはまた一気にビールを飲み干しました。今度は私の方が催促される前に空になったグラスをビールで満たしてあげました。

 さすがに秋本さんも三杯目のビールは一口口を付けただけでテーブルの上にグラスを置くと大きく一つ溜め息をつきました。 

「一体どうしたのよ。深刻ぶって。」

 私はローブを羽織っただけの姿で足を組んで自分のグラスを口に運んでいました。先にも話したように秋本さんの話の内容は私と秋本さんのことでそのために夫がイギリスに出かけたものと思っていました。夫を諦めることには動揺もあったのですが、自分でやってきたことですしそれがこういう結果になっても自分の内側の動揺を見せたくはなかったので私は下着姿で悪女を気取って見せていたのです。

「君の御主人、つまり森村のこと、あいつにはもうほんの少しの時間しかあと半年か一年か、そんな少しの時間しか残っていないんだ。」

 ここに来て私にも秋本さんの言おうとしていることが私が思っていたこととは違うことを感じ取りました。

「どういうことなの。何があったの。あの人に。早く話して。」

 秋本さんは何時の間にか医者の顔に戻っていました。背筋を伸ばして椅子に深くかけ直すと落ち着いた声を取り戻して話し始めました。

「つまりこういうことなんだ。一か月くらい前にあいつが僕のところに来た。『どうも疲れがひどい。肝臓じゃないかと思うんだが見てくれないか。』と言うんだ。確かに軽い黄胆が出ているようなので検査したところ肝臓と胃に腫瘍が見つかったんだ。

 彼の場合、困ったことは肝臓の方の腫瘍が大きな動脈を囲むように広がっているので手術が不可能なことだった。結果が分かって森村に告げたところあいつは『治療はいらない。あとどのくらい元気で動けるのか。元気でなくともいい。何とか動けるのはどのくらいだ。』と聞くんだ。

 『はっきりは言えないが、』と断ったうえで『一応、三か月、それ以上は保証できない。』と答えたらあいつは『分かった。医者のお前がそういうならもう少しは大丈夫なんだろう。秋絵をよろしく頼む。』そう言って出て行った。止める間もなかった。」

 話を聞いているうちに自然と私は組んでいた足を戻してローブの前を揃えて座っていました。喉が乾いて舌が上顎に張りついてしまって口が思うように動きませんでした。

「癌、癌なの、あの人。もう手遅れなの。どうしようもないの?」

 舌が縺れて自分の声がうわずっているのがよく分かりましたが、波打つようにうねる感情を自分ではどうしようもありませんでした。秋本さんは私に向かって黙って頷きました。

「医学的に適切な治療をすればもう少し命を延ばすことが出来るかも知れない。でも完治させることは医学的には不可能だ。胃と肝臓とどちらが源発にしてももう転移は始まっているし、肝臓の腫瘍は今話したように切除も出来ない。後は残された時間をどう過ごしていくかという医学よりもむしろ宗教や哲学の問題だと思う。もち論医学も当然その中に積極的に介入して行くべきだと僕は思うが。」

 秋本さんは科学者としての落ち着きを取り戻していました。その説明は理論的でそして明解でした。その意見には何等の疑問を挟む余地はありませんでした。それは取りも直さず夫の命がもうあと僅かしか残されていないということでした。

 私の頭の中は火花を散らしていました。その混乱した私に頭の中にまず浮かんだのは『とにかくこれで自分を振り向いてくれない夫を取るのか、それとも全身全霊で自分を思ってくれる秋本さんを取るのかという問題は自ら手を下さなくても自然と解決する。』という考えでした。

 そして同時にその自分本意の身勝手な浅ましい考えを真っ先に思いついた自分に言い様のない嫌悪を感じて肌があわ立つ思いでしたが、その時の感覚は頭の片隅に長く残って容易には消えませんでした。

「今晩は帰らないで。一緒にいて。」

 私はこの夜を独りで過ごすことが怖くなってしまいました。現実から目をそらせて、誰かに寄りかかって甘えていたかったのかも知れません。秋本さんは少し首を傾げて考えていましたが、特に急ぎの予定が入っていなかったのか黙って頷きました。

「ありがとう。」

 私は秋本さんに精一杯の笑顔を作って見せました。そうしながら今まで夫には『人間として対等でありたい。』と強がって見せてきた自分が秋本さんには精一杯『女』を武器に使っていることに気づいてはいましたが、そのことには意識的に目を向けないようにしていました。