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 そんな生活をしながら一方では年に一回の夫との旅行を欠かしたことはありませんでした。夫とほんの一泊か二泊の小旅行をしてはどこかの名所で精一杯笑みを浮かべて夫と一緒の写真を撮って、それを年賀状にして新年の挨拶に使うことを私は決して止めませんでした。

 秋本さんとつき合うようになっても私はこの恒例の小旅行を続けていました。夫は特に何も言わないで私の旅行につき合ってはくれましたが、宿に着くと黙って食事をした後は私の方を見ようともしないで持ち込んだ資料に夜遅くまで目を通していました。 

 私は私で本を読んだりテレビを見たり独りで近所に土産を見に行ったりそして眠くなればそのまま寝てしまいました。こんな旅行に何のために毎年出かけるのかと聞かれればそれはやはり私の世間に対する見栄だったのだと思います。

『私達、こんなに仲が良くて幸せなのよ。』

 私は世間にそう見せたかったのです。自分が夫に振り向いてもらえない不幸な女だなんてところを決して他人には見せたくはなかったのです。夫はそのことを知っていたから、こんな私の見栄に黙ってつき合ってくれていたのだと思います。

 秋本さんは秋本さんで嫌な顔一つしないで笑って私を旅行に送り出してくれました。秋本さんの心の中までは分かりませんでしたが、決して気持ちのいいものではなかったと思います。立場が逆だったら私にはとても笑って送り出すなんてそんなことは出来なかったと思います。私は二人の男の人に自分の我が儘を押し付けていたのです。

 秋本さんは夫のことを本当に敬愛していました。また夫も秋本さんには一目置いてつき合っていたようでした。どちらもそれぞれに忙しかったこともあって顔を合わせて話し合う時間は少なかったようでしたが、夫が秋本さんと会ってきた時は聞かなくともすぐに分かりました。何時も淡々とした夫の表情に何処となく笑みが浮かんでいるのです。

 秋本さんと会ってきた時だけは私が声をかけると何時もは振り向きもしない夫が短くとも自分の言葉で私の方を向いて答えました。のんびりと穏やかな性格の秋本さんと何ごとにも切れ味の鋭い鋭敏な性格の夫がどうして気が合ったのか私にはよく分かりません。

 お互いに自分にないものを相手の中に見つけてそれを尊重していたのかも知れません。それとも見掛けは違っても二人とも同じ価値基準を持った同じジャンルに属する人間だったのかも知れません。

 夫の病気を知る少し前から秋本さんは「夫にきちんと話をして結末をつけよう。」ということをそれとなく私に言い始めました。自分の親しい友人の妻と隠れてつき合うことが秋本さんには重い負担になっているようでした。秋本さんがそんな話をするたびに私は戸惑いました。

「自分から折を見て夫に話すから少し待って欲しい。」

 真剣な顔で私に同意を求める秋本さんに私は同じ答えを繰り返しました。勿論自分から夫に話をするつもりなどありませんでした。その場の単なる時間稼ぎに過ぎませんでした。私には怖くてとてもそんなことを夫に話す勇気はありませんでした。

 夫に怒られることが怖かったのではありませんでした。もしも私と秋本さんが本当に愛し合っていて一緒に暮らすことを望んでいることが分かれば間違いなく夫は何も言わずに私を手放すだろうと思ったからです。私は秋本さんの腕の中で散々ぬるま湯に漬かるような安楽を貪っておいていざとなると夫を捨てる決心も今の安楽を捨てる決心もつかずにどちらとも心を決めかねていたのです。

 そして秋本さんが性急に迫ってこないことをいいことに結論をずるずると引き伸ばしては相変わらず安楽を楽しんでいたのです。

 『しばらくイギリスに行ってくる。三、四か月で戻って来る。』

 ほんの一言の書き置きを残して夫が私の前から姿を消したのは仕事の取材と偽って秋本さんと出かけた旅行から帰って来た時でした。その旅行の間中秋本さんが少しふさぎ込んでいたことが気にはなっていたのですが、まさか夫がその原因だとは私は想像も出来ませんでした。

 書き置きを見て私が電話すると秋本さんは事情を知っているかのように落ち着いていました。

「森村のことで君に話しておきたいことがある。これから君のところに行く。」

相変わらず何時もとは違った沈んだ声で短く言うと私の答えも聞かずに電話を切りました。夫はいないので自宅に秋本さんが来ることは構わなかったのですが、夫の書き置きと秋本さんの沈んだ声が私の心を掻き乱しました。

「君の御主人にはもうあまり時間がないんだ。」

 秋本さんにそう言われた時私は何のことか分からずに抑えようもない苛立たしい気持ちを秋本さんにぶつけました。

「何の時間がないっていうのよ。あの人は自分の世界で自由気ままに生活してるじゃないの。イギリスに行って来るなんて。それも四か月も。一体何を考えてるんだか分かりゃしないじゃない。」

相変わらず秋本さんは物憂げな様子で苛立つ私の方も見ないで窓の外に目を向けていました。

「どうしたの。何故私の方を見てくれないの。何か知ってるんじゃないの。あの人のこと。」

 私は秋本さんと深く関わりながら今でも夫に強く惹かれてどちらとも心を決められない自分に苛立っていました。もう話したように夫の浮いた話は時々耳にしていましたし夫が帰ってきた時他の女の香を感じたことも何度もありました。

 そしてそんな時に自分がしたくて仕方がないのに出来ないことをいとも簡単にやってのけるその女達に言い様のない嫉妬を感じていたのです。そこに近頃の中途半端な自分の気持ちに対する苛立ちが加わってそれが夫の書き置きで一気に爆発したのです。