「すい炎と肝炎、それに十二指腸に潰瘍もある。特にすい炎は、・・・・当分、安静が、・・」秋本さん
の声が遠くからとぎれとぎれに聞こえてきました。
「何故、こんなになるまで、・・・もっと早く・・・・」
秋本さんは私のことで夫を責めているようでした。
「色々あったから。疲れているとは思ったけれど。そんなに悪かったなんて分からなかった。」
夫は秋本さんよりもはっきりとした声で話していました。
「お前達、夫婦なんだろう。どうしてもっと気をつけていてやらないんだ。」
「子供じゃないんだ。具合が悪ければ医者に行くくらいの知恵はあるだろう。とにかくよろしく頼む。」
突き放すような夫の言葉をぼんやりとした頭で受け止めていましたが、夫の私に対する気持ちは嫌というほど伝わってきました。夫は私の枕元に立つとそっと私の額に手を置きました。
「しばらく静養する必要があるらしい。秋本には頼んであるからのんびり体を休めるといい。」
私には夫の言葉が取ってつけたようにその場を繕うだけのものに聞こえました。それが本当にそうだったのか私の僻みでそう聞こえたのか今になっては確認する術もありません。
夫は私に言い終わると体を翻すようにして病室を出ていきました。そしてその後伝言や必要な差し入れはあったもののしばらくの間は夫の姿を見ることはありませんでした。
私は最初の一週間はトイレにも立たせて貰えませんでしたが、その後は少しづつ快方に向かって行きました。でも決してどんどんよくなるといったものではなく一進一退、三歩進めば二歩半さがるといった感じでした。
そんな遅い回復に時には苛立つこともありましたが、秋本さんが本当によく手を尽くしてくれたので何とか私も根気の必要な治療に耐えていくことが出来たのです。
三か月の入院でやっと退院することが出来るようになった時、私は秋本さんの夫とは違った温かさに惹かれるようになっていました。
夫には何時も対決姿勢を崩さなかった私は夫の前では気を抜くことができませんでしたが、秋本さんの前では本当に気楽に何でも話すことが出来ました。医者と患者という特殊な関係もあったかも知れませんが。
夫を一言で表せば何事にも鋭いという言葉がぴったりあてはまる人でした。その性格も才能もそして優しさも。夫は滅多に自分の優しさを表に現さない人でした。でも本当に相手に優しさが必要な時にはそれこそ必要な時に必要なだけその相手に優しさをくれました。そして夫の優しさは相手の苦しい部分、辛い部分を寸分違わず的確に切って除いてくれるそんな優しさでした。
ところが秋本さんは医者という職業のためもあったのでしょうが、すべてが鷹揚でした。相手に何時でも有り余るくらい優しさを注ぐのです。だから場合によっては鬱陶しかったり何だか馬鹿にされているように思える時もありましたが、打ちのめされて自分一人では立ち上がれそうもないような時には秋本さんの優しさは溢れ出そうなくらいに浴槽に満たされたお湯のように全身を心地好い温かさで包んでくれるのでした。
でも何でもない時にそんな優しさの中に何時までも漬かっていたらすっかりのぼせ上がって目を回して倒れてしまったかも知れません。あんな時だったからこそ私は秋本さんの中に身を寄せていられたのかも知れません。
私は秋本さんの溢れ返るような豊かな優しさよりも夫の寸分違わない切れのいい優しさが好きでした。それは最初からずっと変わりませんでした。
夫と秋本さんの前で『一緒に生活するのなら秋本さんを選ぶ。』と言った私の言葉はすべてが本心、真実という訳ではありませんでした。秋本さんの優しさを自分の傷を癒すために利用したところはないと言ったらそれはうそになります。そして秋本さんの優しさに漬かって秋本さんの温かさを貪るうちにそこから出て現実と向き合うことが面倒になってしまっていたのです。
退院してからも通院に託つけて私は秋本さんの優しさに浸りきっていました。それでも心底秋本さんが好きだったのかどうか自信がありませんでした。確かに秋本さんには好意は持っていました。でも夫とのことを脇へ放り出したままで秋本さんとの関係を続けることは自分の本意ではありませんでした。
そんな間にも夫の色々な噂話は耳に入ってきました。そんな噂を耳にすると私はいっそう頑なになって秋本さんにのめり込んでいきました。時々夫にこの秘め事を悟られてはいないかと心配になることもありましたが、夫は変わらずに自分の生活の枠を守って私には一切干渉しようとはしませんでした。
私は夫が自分を振り向いてくれない寂しさを一層秋本さんにのめり込むことで紛らわそうとしました。確かに秋本さんは結婚して家庭を持つにはとても良い人なのかも知れません。でも私には自分が求めているのが秋本さんのような人ではないことは分かっていました。
それでも秋本さんのぬるま湯に漬っているようなのどかな優しさから抜け出す決心はつかなかったのです。夫の心をつかむ糸口さえ見つけ出すことも出来ないのに、そのうえに健康まで損なって怖くて独りで世の中に戻っていくことが出来なかったのです。
それで秋本さんは『一緒に家庭を持つには一番いい人だ。』と自分に言い聞かせて自分の本心を偽ってそして本当に私に誠心誠意を尽くしてくれた秋本さんも結果的には欺いて彼の腕の中でそれこそ刹那的な平穏に身を委ねていたのです。
そんな生活が一年、二年と続くと段々とその安易さに自分が慣れてきてしまいました。
『自分の探していたのはこんな平穏な生活だったんだ。お互いに刃を突き付け合うようなそんな緊張した生活ではなくて緩やかな平穏な生活だったんだ。』
一度納得してしまうと人間というものは強いものです。自分の都合の悪いものからは目を逸らして自分に都合のいいものしか見ないようになってしまいます。私は秋本さんの良いところばかりを見るようになり、そして夫の悪いところばかりを探すようになりました。
秋本さんを本当に愛していたわけでもなく夫を本当に憎んでいたわけでもありませんでした。そうしていることが私にとって一番楽な方法だったからです。そうしていれば私には確実に逃げ込む場所が確保されていました。手足を伸ばしてぬるま湯に漬かっているように安楽な場所が。
夫は相変わらず滅多に家には戻ってきませんでした。夫は夫であの人が欲しがっていた温もりを探して彷徨っていたのかも知れません。でも私にとって夫があまり家に戻ってこないことは好都合でした。最初のうちは秋本さんと外泊するようなことはしませんでしたが、一度禁を破ってしまうと後はなし崩しに二日、三日と家を空けることも何とも思わなくなってしまいました。
朝家に帰ると夫が独りで朝食を取っていてすくみ上がったこともあります。また秋本さんのところに泊まっている時に夫が訪ねてきたこともありました。玄関には私の靴が脱ぎっぱなしになっていたのに夫は何も言わずに私の病気のことだけを聞いて帰って行ったそうです。
そんな時私は自分の心臓を体の中一杯に膨らませながら成り行きを見守っていましたが、同時に自分を振り向いてくれない夫に一矢報いてやったという自己満足で背筋が自然に踊り出しそうな快感を感じていました。