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 夫が死んでもうすぐ三年になります。夫がとうとう顔を見ることのなかった美絵はもう二歳になりました。今は少し落ち着いて自分自身や周りを見ることが出来るようになりましたが、この二年は本当に死に物狂いの二年間でした。

 夫の遺骨と一緒に英国から帰国した時、私は妊娠六か月目に入っていました。秋本さんは援助を申し入れてきましたが、考えるところがあって実家に戻って独りで美絵を生みました。それからは仕事と育児で追い回されて本当に子供なんて生まなければ良かったと何度も思いましたが、時々挫けそうになる私を支えてくれたのはやっぱり美絵でした。

 夫が亡くなって本当に夫ともう二度と会うことも話すこともそして触れることも出来ないことを知った時、それと同時に私はこの世の中で一番大事なかけがえのないものを失ったことを知りました。それでも人前では涙一つ見せないで虚勢を張っていましたが、独りになると身を捩って声を枯らして泣きました。いくら泣いたところでどうなるものではないことは分かっていましたが泣かずにはいられませんでした。声が枯れても獣の唸り声にも似た絞り出すような声とは言えない呻き声をあげて泣き続けました。

 その時の私にはただ泣くことくらいしか出来ることがなかったのです。これまで私の前には何時も夫がいました。良くも悪くも私の目標は夫でした。私は夫が好きで好きで仕方がありませんでした。それなのに夫の前ではどうしても素直にはなれませんでした。

 夫に負けたくはなかったのです。今になってみれば一体どうして勝ったとか負けたとかそんなことを決めようとしていたのか全く分からなくなってしまいましたが、とにかくその時は、つまり夫と普通の状態で生活している時には夫の前で女としての感情を見せたら負けだと頑なに思っていたのです。

 私は女として夫に愛されたいという感情よりも夫と人間と人間として常に対等でありたいという自分の意思を優先しようとしたのです。女として異性に愛されることと異性と人として対等につき合っていくことが、それぞれ次元の異なった問題であり、それらを両立させることが可能だということは自分の頭では理解していたのですが、それでも夫の前で女をむき出しにすることはその頃の私にはどうしても出来なかったのです。 

 だから夫に抱かれてときめくような快感に浸っていてもそれを悟られないようにと必死に堪えていました。苦しいことや辛いことがあった時も夫に寄りかかって甘えるようなことはしないでまず自分で解決方法を探そうとしました。

 日々の生活の中で夫の背中を見つめながら、何度その背中に寄りかかって甘えたい誘惑に駆られたことがあったか、そんなことあまり多すぎて数えることも出来ませんでした。そんな私にも夫は最初の頃こそ私を守ろうとしてくれたり時には手を差し延べてくれたりもしていましたが、頑なにその手を拒む私に愛想をつかしたのか段々と私から遠ざかっていってしまいました。

 そんな夫の態度に慌てたのは夫の好意を拒み続けていた私の方でした。自分から離れていく夫に自分の方を振り向かせるには自分の能力を認めさせる他に方法はないと信じて私は尚一層仕事に打ち込んで、そしてそうすることで夫の注意を引こうとしました。

『あなたの前には私がいるのよ。私の方を見て。』

 私は声にならない叫びをあげているつもりでした。その結果仕事の方ではそれなりの評価を受けるようにはなりましたが、夫は遠くから冷めた目で私を見ているばかりで夫との距離は少しも縮まりませんでした。

 夫は私と一緒に生きていくことを諦めたのか徐々に自分自身の生活のペースを作り出してそれに従って生活を始めました。よく世間では衣食住に関して女の援助を絶たれた男は悲惨だと言いますが、夫はそんな人間ではありませんでした。

 炊事、洗濯、掃除、何でも器用に済ませて涼しい顔で生活を続けていました。かえって他人のペースに合わせる必要のないそんな生活を結構楽しんでいるように私には見えたのです。

 まさか夫が『雨の中、軒下で体を寄せ合うような温もり。』を求めて驟雨の中を彷徨っているなんてその頃は思いもよりませんでした。だから飄々とした態度で近づいて来る女の人を適当に相手にしながら暮らしている夫を見ていると段々と腹立たしくなっていったのです。

 そんな腹立たしさに加えて夫との距離が縮まらない焦りも手伝って私は火がついたように性急に子供をつくることを夫に求めました。そんな私に夫は少し首を傾げるようにして私の顔を見ながら静かに言いました。

「それよりも先にしなければならないことがあるんじゃないか。」

 今になって考えてみればその時夫は子供より先にもっとお互いに理解し合おうとそれとなく諭していたのだと思います。でもその時の私にはそんな夫の問いかけに答える余裕はありませんでした。とにかく子供が出切ればこの膠着した状況が開けるかも知れないとまるで一種の信仰のように思い込んでいたのです。夫は婉曲な表現では私には伝わらないと思ったのかはっきりと私に言いました。

「お互いにもっと深く理解し合ってからでも遅くはないのではないか。」

 でも何と言われようとその時の私は聞く耳を持ちませんでした。ただ頑なに「子供が欲しい。」と、そう夫に言い続けましたが、結局、私達に子供は出来ませんでした。そして後に残ったのは私と夫の間に横たわる深い溝だけでした。

「君は自分で思い描いた生活を描いたとおりに実現しなければ満足出来ないんだろう。相手がどんな思いをしているかなんてことは考えもしないで。君は何でも自分の描いた王道を歩いていなければ気が済まないんだろう。」

 もう何が原因だったのか忘れてしまいましたが、夫がそれまで押さえていた怒りを吐き出すように言った時のことは今でもはっきりと覚えています。

「君にとって夫や子供は車や家具と一緒なんだ。君が描いた家庭という君個人の世界を造るための大道具小道具なんだろう。でも俺は君の描いた生活というドラマの大道具、小道具じゃない。」

 夫が心の底で押さえに押さえていた言葉だったんでしょう。その言葉は私を貫いて打ちのめすには充分すぎるくらいでした。私は夫や子供を自分の思い描いた生活を造るための大道具小道具にしようなんて気持ちは少しもありませんでした。

 ただ好きな人とそしてその人の子供を生んで一緒に暮らしたかっただけでした。私の心の中から沸き上がった悲しさが、目から鼻からそして口から溢れ出しそうになりました。その沸き上がって来る悲しさを爪を掌の肉に食い込ませて堪えながら何も言わないでそっと夫に背を向けました。

『これで終わった。もう夫に近づくことは出来ない。』

 私はそう思いました。でも同時に夫のことが好きで好きでたまらないのにどうしてもその気持ちを素直に夫にぶつけることが出来ない自分自身をこれほど恨めしく思ったことはありませんでした。

 一度背を向けた夫の冷たさは簡単に口では言い表せないほどのものでした。大声で怒鳴り散らすわけでもないし、もちろん暴力を振るうなどということもありません。それでも怒鳴られたり殴られた方がまだましだったかも知れません。自分の存在を全く無視されるよりも。

 夫は週の半分くらいは外に泊まるようになりました。仕事も忙しそうだったのでそのためもあったのでしょう。家に帰って来ても私を全く無視して生活していました。口をきかないとかそっぽをむくとかそんな類いの無視の仕方ではなくて目の前に私がいるのに全く誰もいないように振る舞うのです。

 私もこれには参ってしまいました。これまでこんな仕打ちを受けたことがなかったのでこの夫の態度にどう対処したらいいのかも分からなかったのです。とにかく私も夫に動揺した姿を見せないように頑張りました。

 そして時々夫が嫌がることをそれと知っていてわざと仕向けてやりました。それでも夫はしれっとした冷たい視線を一瞬私の方に向けるだけで後はまた元のように自分の世界に垣根を張り巡らせて私を寄せ付けようとはしませんでした。

 私は離婚することも考えてみました。でもそれはただ観念的にこの状態を解決する一つの方法として頭に浮かんだだけで実際に離婚するつもりはありませんでした。それにちょうどその頃は結構仕事も忙しかったことから夫と顔を合わせることはそれほど多くはなかったので何とか取り乱さないで平静を保って見せることが出来たのかも知れません。

 そんな生活を続けているうちに私は体の不調を感じ始めました。初めのうちはただの疲労か精神的なものと思って放っておきましたが、日が経つにつれてただの疲れといって放置するには済まない状態になってきました。

 そしてある日帰宅すると強い吐き気を感じて何度も嘔吐した後、そのまま倒れてしまったのです。全身がだるく熱っぽく自分の体が自分のものではなくなってしまったように体のどこにも力が入りませんでした。そのうちに妙に体が軽くなってきて周りの景色が私を中心にぐるぐると回り始めました。

『このまま死んでしまうのかな。夫は何処で何をしているんだろう。私が今ここでこのまま死んだら夫は戻ってきた時私を見つけてどう思うんだろう。私の方に顔を向けるだろうか。それともこれまでのように冷たい一瞥を投げつけるだけだろうか。』

 私は薄れていく意識の中でまだ夫のことを考えていました。視界が段々狭くなって部屋の中は明りが点いているはずなのに何だかあたりが薄暗くなってきたように感じました。

『ここに来て。もう一度私を抱いて。』

私は夫のことを考えながら呟きました。そして意識を失いかける直前にドアの開く音が聞こえました。

『夫が、夫が帰って来た。』

そう思った直後に私は意識を失っていました。