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 ほんの数日しか経っていないのに独りで残されても以前ほど不安も焦りも感じなくなっていた。とにかく死ぬ前にもう一度テリーに会っておきたかった。これほどの無理をしてテリーに会わなければいけない具体的な理由は何もなかった。

 ただテリーに会って『君が言っていたように精一杯生きたんだ。』と言っておきたかった。そしてテリーに「本当にあなたは精一杯生きたのね。それでいいのよ。」と言ってもらえればそれで何とか納得出来そうな気がした。そんな子供のようなことで何故自分の死が納得出来るのか自分にもさっぱり分からなかった。

 今までの自分であればそれで納得出来るような理由などどこにもなかった。それなのにたったそれだけのことで死を受け入れようとしている自分が不思議だったが、宗教とか信仰というものはこんなものなのかも知れないと考えて自分で納得していた。

 生きることに絶対に越えることの出来ない障壁で区切りをつけられてあえて治療を拒んで出かけたイギリスで出会ったテリーという女に自分の弱さをすべて預けて生きてみた。そしてそのまま残りの時間を手リーに預けて生きてみようと思った。

 テリーに自分の運命を委ねることで死の本能的な恐怖から逃れようとする自分の姿はにわかに神の前に跪いて祈る不出来な信徒の姿そのままだった。

 午後になって秋絵が帰って来た。秋絵は部屋に入って来ると真っ直ぐにベッドの横に来てまるで若い恋人同士がするように寝ている僕の髪をかきあげるようになで続けた。

「秋絵、戒名なんか要らないよ。今の名前でいい。墓も要らない。火葬にした後は葬式をする金でヘリでもチャーターして南アルプスの奥にでも撒いてくれ。」

「何も言わないで。黙っていて。黙って私の側にいて。」

秋絵は僕の言葉を遮るとしばらくの間僕の頭を自分の胸に押しつけるように抱いていた。

「明後日の朝の便が取れた。ロンドンまで直行便だから機内で一〇時間ほど辛抱すればいいわ。」

秋絵は自分の胸に抱いていた僕を離すと比較的落ち着いた声で言った。

「色々ありがとう。迷惑かけて。」

 秋絵は何も言わずにまた僕の髪を撫で上げた。秋絵の涙が幾つも落ちて僕の顔を伝って流れていった。
その晩、秋絵はほとんど僕の側を離れなかった。食事さえもろくに取ろうとはしなかった。体を壊すから少しでも何か食べて休むように言っても笑いながら首を振るだけで僕の側を離れようとはしなかったし眠ろうともしなかった。

「秋絵、眠らないのなら何か話でもしようか。」

秋絵は僕の顔を見つめた。

「戒名やお葬式の話はいやよ。でも疲れるからあなたは休んで。私がずっと見ていてあげるから。」

「もうすぐにずっと休めるから大丈夫だよ。今少しぐらい夜更かししても。」

「そんな話はいや。話すのならもっと別の話をして。」

「この間、成田から帰ってくる時、タクシーの中から東京の街並を見たよ。随分長い間東京で暮らして来たけどあんなにじっくりと東京という街を見たのは初めてだった。東京って本当に大きな街だったんだなってつくづく思ったよ。

 一八歳で東京に出て来た時、東京って街は随分雑然としていて油断のならない街のように思った。色々な人間が押し合い、ひしめき合い、互いに利用し合ったり、食い合ったり、潰し合ったり、とにかく怖い街だって印象が強かったけど、それから二〇年以上もこの街で暮らしていると東京っていう街の顔が少しづつ変わって見えて来るようになってきた。

 この街には色がないんだ。何て言うのかな、他の街には色があるんだけれど、例えば神戸、横浜なら港、大阪なら商売、仙台なら杜の都、そんな具合に何処の街にもそれなりの色が着いているだろう。ところがこの東京って街はそれこそ他の街にあるものは何でもそれ以上に揃っているくせにこれと言った特色がないだろう。そんな東京を見ていてなんだかこの街って、」

「もしかしたら神様のような街だってあなたはそう言いたいんでしょう。あなた、東京がとても好きだから。何処かの街に行ってもそれはそれなりにその街を楽しんではいたみたいだけれど何時も東京に帰ってくると本当に安心したような顔をしていた。」

「そう、東京って良いものも悪いものもきれいなものも汚いものも弱いものも強いものもすべてをその中に抱き込んでしまって、どんなものも公平に優しく見守っているような感じがする。

 ただ人とその入れ物の建物が集まっただけの行政区画で線引きされた区域にそんなことを思うのは馬鹿げたことかも知れないけど何だかやっぱりこの東京という街がもしかしたら神のような存在じゃないかって思えて仕方がないんだ。

 そりゃその人なりに思い入れのある土地はあるだろうし、僕はこの東京で自分の生涯で一番多感な時期を過ごして来たからそんな事を思うのかも知れない。でももしも神が存在するのならこの東京みたいなものじゃないかってそんなふうに思うんだ。

 ただ一人の人間とか人類とか地球とかそんな小さな物だけじゃなくて我々が計り知れないほど多くのものすべてをその内にだき抱えて、過去から現在そして未来へと続く永遠の時間の流れの中を内に抱いたものすべての喜怒哀楽、非劇喜劇を見つめながら、すべての命の誕生と生とそして終焉をじっと見守っている。

 別に何をしてくれる訳でもないんだけれどただ見ていてくれる。そんな気がするんだ。そしてもしかしたらそんな一つ一つの悲喜劇を一緒に悲しんだり喜んだりしてくれているのかも知れない。そんなことを考えながら見ていると東京って本当に大きな街でそしてやっぱり優しい街のような気がするんだ。」

「こんなことを言ったら叱られるかも知れないけどあなたがそんなことを言うなんて、そんなことを考えていたなんてとても意外だった。もっとものごとを客観的にそして合理的に考える人だと思っていた。知らなかったことばっかり。今更遅いけどもっとあなたのことよく見ておけばよかった。」

「もっと冷たい思考をする男だってそう思ったのか。それも時と場合によるさ。誰だって自分のことになれば少しでも優しい考え方をしたくなるもんだよ。」

「何もかもみんな手遅れ。今本当にあなたと一緒に暮らしたいと思う。一緒に暮らしてあなたのことを知りたい。本当に私って馬鹿だった。」

 秋絵はまた涙を流し始めた。僕はもう秋絵に言ってやれるようなことは何もなかった。黙って泣いている秋絵を見ていてやるだけだった。

「ごめんね。私、泣いてばかりいて。あなたの支えにもなってあげられなくて。でも辛いの。これまでどうしてあなたに何もしてあげられなかったのかと思うと。自分が情けなくて。あなたとはもっと別の違った関わり方が幾らでもあったと思うと自分の馬鹿さ加減が本当に情けなくて悔しくて。」

「自分が死ぬ方が人を見送るよりもかえって気楽なところはあるかも知れない。もういいじゃないか。済んでしまったことは。せめて残った時間くらい有効な使い方を考えようよ。秋絵、もっと何か他の話はないのか。」

「あなたを見ていると辛くて悲しくて何も思いつかない。側にいたい。一緒にいたい。何て馬鹿な女なの、私って。」

「何もしてくれないなんてとんでもない。秋絵は僕をイギリスに連れていってくれるじゃないか。それも自分以外の女のところに。それだけで充分だよ。」

「ごめんね、本当にごめんね。そんなことしか出来なくて。」

「明後日の朝か、日本にいるのも、もう一日と少しなんだな。」

 その後に『もう日本に帰ってくることはないだろう。』とつけ加えそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。秋絵にもうこれ以上辛い思いをさせたくないと思ったからだった。

「あなたが日本で生活するのも、もう後一日と少しなのかも知れないわね。」

 秋絵の口から意外な言葉が飛び出した。

「今くらいあなたの近くで暮らしたことってこれまでに一度もなかった。結婚したばかりの頃だってたとえあなたに抱かれていても今ほどあなたを近くに感じたことなんか一度もなかった。何時か屈服させなければならない手強いライバルとしてしかあなたを見てこなかった。

 今あなたのことが少し分かりかけて私もあなたの側で暮らすことに幸せを感じ始めてあなたが落ち着いていると何だかこの生活がずっと続いていくような気がしてしまって。あなたが何時までも私の手の中にあるようなそんな感じがしてしまって。だから一分でも一秒でも無駄にしないように時々自分に言い聞かせるの。『この時間はもうほんの僅かしかないんだ。』って。変なこと言ってごめんね。今、私何も考えられない。ただあなたの側であなたと一緒に生きたいだけ。」

「秋絵、来いよ。一緒に寝よう。」

 秋絵は黙って頷くと寝支度をするために洗面所に立った。秋絵はこのところ何か飄々とした趣を漂わせているところがあった。何も隠し事もしない。自分を繕ったり飾ったりすることもない。ありのままの、裸の自分をさらけだして平然としていた。そんな秋絵を見るのはこれが初めてだった。