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 秋絵は本気のようだった。僕はそんな秋絵に何とも答えることが出来なかった。まさか秋絵にこんなことを言われるなんて予想もしていなかったことだった。秋絵はゆっくりと出口の方に歩いて行くとドアの脇についているスイッチを切って明りを消した。

 そしてソファのところに戻って来ると着ているものを脱ぎ始めた。僕はベッドで半身を起こしたまま黙って秋絵を見ていた。窓のカーテンは引かれていなかったので秋絵の体は外から入って来る光に照らされてはっきりと見ることが出来た。随分久し振りに見る秋絵の体はまだ女としての華やかさを失ってはいなかった。秋絵はゆっくりベッドの方に近づいて来た。

「隣に横になってもいい。」

「構わない。でももう僕には君を女として扱ってやれるような体力は残っていない。」

「そんなこといいの。私はあなたの前で素直な気持ちで女になってみたいだけ。」

 秋絵は僕の左側に横になって僕の腕を自分の胸に抱きこんだ。腕が秋絵の胸に包まれるのが随分懐かしい感触だった。もう何年も秋絵の体には触れたことがなかった。

「あなたの匂い。あなたに会ってから一度も忘れたことのないあなたの匂い。」

 秋絵は僕の胸に顔を埋めた。秋絵の匂いが部屋の中の空気に混ざって一緒に肺の中に流れ込んで来た。その秋絵の匂いも随分昔に忘れてしまっていた匂いだった。そんないい加減な僕に較べて秋絵が僕のことを思い続けていたことは驚きだった。そして秋絵の気持ちを思うと僕の心はまた微妙に揺れた。

 秋絵は僕の左腕を自分の体の中に抱え込むように抱き締めた。秋絵の胸が、腹が、そして太腿が僕の枯れかかった左腕を包み込んだ。秋絵は小さく呻いてさらに強く僕の腕を抱き締めた。その時僕を何か強い衝動が突き動かした。その衝動は何時もの性欲とは違った別のもののように思えた。

 僕は秋絵の腕を振り解くと右腕に刺してあった点滴の針を引き抜いた。そして唖然としている秋絵を引き寄せてその体を抱き締めた。秋絵は僕の腕の中で顔を上げてしばらく僕を見上げていたが、僕が秋絵に微笑んだのを見て僕の首に腕を回すと自分の方に引き寄せて唇を合わせた。

 秋絵は唇を合わせながらただ無心に自分の感情に任せて体を押しつけてきた。その秋絵の体を全身で支えながらこれまでの自分の生き方は何か足りなかったんじゃないだろうかと考えていた。

『自分に正直にそして素直に生きること。正直で素直と思ったことが本当に素直であったかどうかは別にしても少なくとも自分に正直には生きてきたつもりだった。ただその為に人に対する優しさに欠けるところがあったんじゃないか。

 仕事にしても私生活にしてもそれなりに精一杯生きてきたが、自分の思いに正直であろうとするあまり他人を忘れて、忘れてと言うよりも分かっていたのにあえて無視して突き進んで来たことも少なくはなかったんじゃないのか。自分と自分を取り巻く他人、一体どう関わり合って生きていけばよかったんだろう。自分の思惑と人に対する優しさをどうして両立させていけばよかったんだろう。優しさって一体何なんだろう。』

 ただでさえ支え切れないほどの重荷を背負い込んでいるのにそんなことを考えているとまたもう一つ大きな問題を抱え込んでしまったような感じがした。

『秋絵にももっと別の接し方があったんじゃないだろうか。そうすれば秋絵もまた変わったんじゃないだろうか。』

 僕は時々溜め息のような声を上げて無心に体をすり寄せてくる秋絵を抱きとめながら考えた。

『もう少し時間があれば。』

 そんな思いが頭の中を駆け巡った。こうして何かことあるごとに沸き上がってくる生への未練が自分を戸惑わせた。

『人間という生き物はつくづく未練がましい生き物なんだな。』

 生への思いを振り払うように秋絵を抱き寄せて体を探った。そうしながら僕は着ているものを脱ぎ捨てた。そしてそんな僕の様子に驚いている秋絵にそっと体を開くように言うと秋絵に重なって行った。一体何処にそんな体力が残っているのか自分でもよく分からなかった。ただ何かに突き動かされるように秋絵に向かった。そして秋絵を抱きながらテリーが僕に言ったことを考えていた。

『あなたはどんなことにも理由をつけたがる。でも人は何故生まれて何故死んでいくのかあなたはその訳が分かるの。今生きているのなら精一杯生きればいい。だってあなたは今生きているじゃないの。』

 僕は自分の体の中でもう残り少なくなった生のエネルギーが炎を上げて燃え上がるのを感じた。そして同時にそのエネルギーがもう二度と充たされることがないことも嫌になるくらい分かっていた。それでもそんなことはあまり考えもしなかった。

『俺は生きている。まだ生きている。テリーが言ったように今は生きているんだから今を生きればいい。』

 僕は頭の中でテリーの言葉を繰り返しながら秋絵を抱いた。秋絵は今まで見たこともないくらい激しく僕に答えた。そして僕にとっても秋絵にとっても間違なく最後になるだろうその行為が終わった後も秋絵は自分の身体を開いたままベッドの上に体を投げ出して身動きもしなかった。僕はその横でしばらく荒い息使いを続けていたが、秋絵の方を向いて片腕を伸ばすと秋絵の身体をそっと抱いた。

「私ってひどい格好でしょう。夫や恋人の前だってこんな格好でいるなんて考えられなかった。何だか女むき出しって感じでいやだった。でも今は平気よ。とっても気持ちが楽なの。自分が女なんだなって今つくづく感じているの。

 今までは自分が女だってことを心の奥に押し込めていた。自分が女だなんて思ったら負けだって。もう少しこのままでいさせて。やっとあなたの前で女になれた。私はこれで一人になっても何とか生きて行けるかも知れない。本当にありがとう、あなた。私にも優しさを分けてくれて。」

「最後に抱き合ったのが病院のベッドの上なんて結構洒落てるかも知れない。それに相手がもう余命幾許もない夫なんて。泣かせるよな。」

秋絵に向かって冗談を言ったつもりで微笑みかけた。

「優しさが足らなかったのかな。僕の生き方は。秋絵にも他の人達にも。」

「そんなことない。あなたは充分に優しい人。私の方こそプライドだの見栄だのそんなつまらないものにこだわって自分を上手に解放することが出来なかっただけ。自分に素直に生きることって本当に難しいし勇気のいることだって今になってやっと分かった。

 私はあなたに反発ばかりしていたのにあなたは今こんな時でも私のことを考えてくれた。あなたが手を貸してくれなかったら私は自分を解放することは出来なかったと思う。こんな時にまであなたは本当に優しい人。それに引き替え私はあなたに何もしてあげなかった。それどころかあなたを苦しめるようなことばかりして。

 私はあなたの言うとおり細やかな才能やら学歴やら取るに足らない教養やらそんなもので自分を武装しながら陰では何時も怯えていた。そんな武装や鎧が何時破られるかって。そんな弱虫なのにあなたの前に出ると強がってばかりで本当にもう二度とあなたに会えなくなってしまう瀬戸際まで自分に素直になろうと勇気を奮い起こすこともしなかった。本当にごめんなさい。私の方こそ今更謝って済むなんて思ってはいないけど本当にごめんなさい。」

 秋絵は僕の腕に縋るようにしてすすり泣きを始めた。その秋絵の頭を右腕で抱え込むように抱いて髪を撫でた。

「そんなに自分ばかりを責めなくてもいいんじゃないか。人と人の関わりはお互いに責任があるんだから。秋絵ばかりが悪い訳じゃない。そんなことは分かっていたのに何も手を打たなかった僕も悪かった。本当に最後の最後だけれど分かり合えたんだからそれでいいじゃないか。秋本が言うように最後の最後にやっと温かさが戻ったんだから。もっとも幾らなんでももう溌剌としてはいないだろうけど。」

秋絵は小さく首を振って僕に答えた。