例の看護婦の声がドア越しに聞こえるとそれから一呼吸おいて彼女は中に入ってきた。
「検査の準備が出来ましたからこの検査衣に着替えて診察室にお出でください。秋山先生がお待ちです。」
僕と秋絵の顔を交互に覗き込むようにしながら検査衣を秋絵に手渡した。
「あなた、私達の顔がどうかしたの。何度も覗き込んで。失礼じゃないの。」
堪忍袋の尾が切れたのか秋絵が強い調子で看護師の態度を責めた。看護師は不意を突かれてたどたどしい言い訳をしながら逃げ出す様に部屋を出て行った。
「本当に失礼な子。何度も何度も顔を覗き込んで。何だと思っているのかしら。」
秋絵はあのくらいでは腹の虫が治まらないといった様子だった。
「他人の好奇心を刺激するようなことをする方にも問題があるんじゃないか。」
秋絵を軽く窘めるように言っておいてから僕は検査衣を受け取ると部屋を出て診察室に向かった。
「あなたの検査が終わるまでここで待ってる。」
秋絵の声が後ろで響いた。診察室に入ると秋本が顔を上げた。カルテか何かを見ていたようだった。
「奥さんとはゆっくり話が出来たか。心配してただろう。」
秋本は椅子に座り直して僕の方を向いた。
「ああ、色々話した。秋本、秋絵を宜しく頼む。俺はあいつには何もしてやれなかった。今俺に出来る事はあいつの好きにさせてやることだけだ。あいつはお前のことが好きなんだ。お前の前では自分に素直にそして正直になれると言っていた。それが相性なんだろう。
俺と秋絵はそれぞれお互いにありったけの武器を身に着けて完全武装してお互いに相手を屈服させる事しか考えていなかった。もっと他の生き方を考えようと思ったこともあったけれど結局俺は秋絵とそれ以外の関わり方を見つけることは出来なかった。でもお前なら秋絵と他の生き方を生きることが出来るかも知れない。」
「何時、気がついたんだ。」
秋本は座っていた椅子を回して窓の方を向いた。秋本は自分の表情を僕から隠したかったのかも知れない。
「何時か話さなければいけないとは思っていた。それがこんなことになってしまって余計に切り出し難くなってしまった。いや、話せなくなってしまった。決して時が過ぎるのを待っていたわけじゃない。それだけは信じて欲しい。」
「そんなこと構わない。とにかく秋絵を頼む。さあ診察を始めてくれ。」
僕は患者用の椅子に腰を下ろした。秋本はもう一度椅子を回して僕の方に向き直ったが、明らかにその顔に動揺の色が浮かんでいるのが見て取れた。
「黙っていようかとも思ったけれどちょっと言っておきたかった。嫌がらせとかそんなことじゃなくて、今秋絵のことを頼んでおきたかった。お前に。」
秋本は何も言わずに机の上のカルテを取って広げた。
「俺は医者失格だな。患者にこんな負担をかけて。そんな積りじゃなかったんだ。ただ秋絵さんの話を聞いてやって少しでも彼女の負担を軽くしてやれればと思った。それも医者の義務だと最初はそう思った。」
まだ何か言いたそうな秋本を遮って僕は秋本に早く診察を始めるように促した。今の自分の状態を出来るだけ詳しく知っておきたかった。その結果でこれからのことを考えるつもりだったからだった。
秋本は二、三回深く呼吸をしてから「MRIにかかってみてくれ。今の君の状態を詳しく見てみたい。」と言って検査依頼書に署名してから差し出した。僕はそれを受け取ると指示された検査室に入った。
検査室では女性の技師の指示でトンネルの様な機械の中に入れられた。そのトンネルは前後に動きながら時々止まる度にリングが回転して僕の体の中を探った。検査それ自体は一〇分か一五分程で終わってもう一度秋本のところに戻された。
「結果が分かったら部屋に行く。戻って休んでいてくれ。」
秋本はただそれだけを言うと机の上に広げてあった書類に目を落した。僕も一言「分かった。」とだけ返事をして自分の部屋に戻った。
秋絵は言ったとおり部屋で僕を待っていた。そして僕を迎えると、一言、「お疲れ様。」と言った。珍しくあれこれ聞かない秋絵の態度が好ましかったので僕は秋絵に検査の様子を話して「結果は後で秋本が説明にくるそうだ。」と言って短い会話を締め括った。
「夕方仕事の打ち合わせで出かけるけれどそんなに時間はかからない。今日はここに泊まっていこうと思うんだけど、いいかな、あなた、迷惑じゃない?」
秋絵に言われて僕は少しばかり戸惑ってしまった。秋絵が泊まることは迷惑でも何でもなかったが、秋本にあんなことを言ってしまった後だけに秋絵を泊めるのは複雑な気持ちだった。秋絵がここに泊まれば秋本も複雑な気持ちだろうと思うと返答に困ってしまった。それに今更夫婦を気取ったところで仕方がないようにも思えた。
「迷惑なのかな。それで返事をしてくれないの。」
秋絵が寂しそうな顔をした。
「そんなことはないけど秋本が傷つくんじゃないのか。君がそんなことをしたら。」
「秋本さんは、何度も言うけど、あくまでも将来の可能性の一つ。今はあなた、あなたの側にいたいの。」
僕は何も答えずに黙って聞いていた。秋絵は「すぐに戻ってくるから。」と言い残して部屋を出て行った。秋絵と入れ代わるように秋本が部屋に入って来た。そして何も言わずにレントゲン写真投影機のスイッチを入れるとそこに何枚かの写真を挟み込んだ。その写真には詰め物をしたイカの輪切りのようなものが行儀良く並んで幾つも写っていた。勿論それは自分の体を電子的に裁断した映像だった。
「思っていたよりも症状は進行していないようだ。ただ隠してみても仕方がないからはっきり言うが、状況は楽観出来ない。肝臓に転移した腫瘍が動脈を取り巻くように大きくなっている。もしも腫瘍が血管壁を圧迫したり浸潤したりした場合、・・・」
秋本は最後まで言わなかったが、言われるまでもなく結果は分かっていた。失血死か衰弱死かいずれにしても結果は「死」しかなかった。
「今の状態から判断すると後どの位生きられるんだ。お前の医者としての判断を聞かせてくれないか。」
秋本は困ったような顔をした。僕にとってみれば今自分に残された時間がどのくらいあるのかが大問題でどんな死に方をしようとそんなことは大した問題ではなかった。
「答えてやりたいんだが、そればかりは何とも言い様がないんだ。今のお前の状態だと半月先のことも何とも言えない。」
今度はさすがに僕の方が黙り込んでしまった。失血死だろうが衰弱死だろうが、死ぬことに変わりがなければ死に方はどうでもよかったが、自分に残された時間がそこまで切迫しているという事実には打ちのめされそうになってしまった。
『こんなところで残された時間を食い潰してはいられない。何かをしなければ。』
そんな思いがまた燃え盛る炎のように吹き上げて来て頭の中を支配した。頭の中が真っ赤に燃え上がったように熱くなって何も考えられなくなった。僕はとにかく冷静に戻るまで待つしかなかった。
「おい、森村、どうしたんだ。大丈夫か。」
秋本の呼ぶ声が聞こえた。そしてその声が二度、三度と耳の中に響くうちに少しづつ冷静さを取り戻した。
「森村、おい、森村、どうしたんだ、大丈夫か。」
何回目かの秋本の声を聞いた後で一度深呼吸をしてから口を開いた。
「半月持たないとか心臓に悪いよな。もう少し患者を安心させるようなことが言えないのか。」
「済まなかった。お前には本当のことをはっきり言ったほうがいいかと思って。」
秋本は本当に済まなそうな顔をした。
「でもお前が今何を考えているのか大体の見当はつくけれど今はこのままここにいてくれ。ここにいれば何があってもそれなりの対応は出来る。そうすればある程度は先のことも・・・」
秋本が何を言いたいのかそれはよく分かっていた。これから先自分の体に起るかも知れない事態に適切な対応さえしていけば、半年とか一年くらいの時間は保証出来ると言うことなのだろう。ただそれは僕にとっては半月も半年も同じことだった。打ちのめされそうになったのは死ぬことが恐ろしかったことよりも残された時間をどう生きればいいのかそれが一向に掴めないためだった。
「それも合わせて考えてみるよ。ところで今晩秋絵がここに泊まりたいってそう言うんだけど構わないかな。」
秋本は怪訝そうな表情で僕を見た。
「何故そんなことを僕に聞くんだ。構わないに決まってるじゃないか。」
「秋絵のこともそろそろけじめをつけようと思って。放っといてもすぐにけじめはつくんだけど生きてるうちにそれなりの区切りをつけておきたい。それが僕が秋絵にしてやれる最初で最後の夫らしいことだと思って。」
秋本は何も言わずに椅子を立った。そしてドアのところで僕の方を振り返った。
「症状はそれほど進んではいない。もう一度良く考えてくれ。」
僕は黙って秋本に頷いた。