イメージ 1

「何時頃から。」

「膵炎が完治したって言われた時、そのお祝いに食事に誘われた。その時に。もう三年位になる。私、女として生きることは諦めていた。だってその時はもう三〇代も後半で女としてはとっくに華の時は終わっていると思っていた。

 でも何処かで私自身まだ女として生きてみたい、愛されてみたいっていう気持ちが捨て切れなかったんだと思う。本当はあなたに向かってその気持ちをぶつけてみるべきだったんだと思う。でもどうしてもあなたには『もう一度、私を抱いて。私を愛して。』とは言えなかった。あなたにそんなこと言えば自分の負けを認めるような気がしてどうしても言えなかった。」

秋絵はまた声を押し殺したような低い呻き声を上げて泣き始めた。

「病院はベッドもあれば裸にもなるか。ちょっと下品かな。結局俺達は縁がなかったんだな。一〇何年もの間、お互いにその一言が言えなかったんだから。」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」

 秋絵はとぎれとぎれに答えた。別に秋絵を非難するつもりなど全く無かったが、取り方によっては随分酷いことを言ってしまったのかも知れないと思った。

「秋絵のことを悪く言うつもりはなかったんだ。僕の方こそ君に何もしてやれなくて本当に悪かった。僕じゃなくて秋本に素直になれたのは二人の相性がよかったからだと思う。秋絵、今度はきっと幸せになれるように祈っている。」

 秋絵はとうとう堰を切ったように声を上げて泣き始めた。僕はただ秋絵を眺めていた。秋絵との関係は何時か終りがくることは分かっていたが、今こんな形でそれを迎えるなんてことは予想もしていなかった。  

「もう一度、最初のように溌剌とした才気溢れるそして温かい夫婦に戻ってくれ。秋本が昨日そう言っていたよ。そんなに輝いていたのかな、俺達。その頃はお互いの人格がぶつかり合って火花を散らしていたから輝いているように見えたんじゃないのか。

 こうしてお互いに素直になれなかったことが俺達夫婦のすれ違いの原因だということが分かっても、それでも俺達はお互いに近づいて傷を嘗め合うことも出来ないんだな。俺は優しさを探してお前は素直になれる場所を探して随分さ迷い歩いて、まさかそれが自分の目の前にあるかも知れないなんて考えもしなかった。秋絵、今度は素直になって穏やかに暮らしてくれ。」

 僕はテーブルから立ち上がってインターコムで食事が済んだことを告げた。秋絵は顔を伏せたまままだ肩を震わせていた。

「秋絵、まだここにいるのか。少し休むよ。昨夜、あまり寝てないんだ。散々偉そうなことを言っても実際自分がもう後少ししか生きられないとなると死ぬことが怖くて眠れなかった。情けない生き物だよな、人間って奴は。」

 僕はベッドに体を横たえると目を瞑った。軽い眠気を感じてそれからすぐに眠りに落ちた。浅い眠りの中で色々な人の顔が浮んでは消えた。一番最後に秋絵が微笑んでいるのが見えた。秋絵は夢の中で体を翻すように僕に背を向けると勢いよく走り出した。

「何処に行くんだ、ちょっと待てよ。」

 秋絵に向かって呼びかけながら僕はゆっくりと秋絵の後を追って走り出した。暫く走ったところで秋絵が立ち止まってもう一度僕を振り返った。その顔を見て僕は息を飲んでしまった。秋絵は何時の間にかテリーに変わっていた。

「テリー、どうしてここに。何時、日本に来たんだ。」

 テリーは何も言わずに微笑んでいた。僕はそんなテリーを見ていると何だかとても懐かしくそして温かい気持ちになった。

「テリー、元気だったか。何だか随分久し振りに会ったような気がする。まだほんの二、三日なのに。」

 僕はテリーに近づこうと歩き出すと誰かが僕の手を握って引き止めたように感じた。それと同時にテリーの顔が消えて代わりに病室の中の様子が目に入って来た。

「大丈夫、あなた。」

秋絵の声が聞こえた。手を握っていたのは秋絵だった。

「随分うなされていたみたいだけれどどこか苦しいの。」

秋絵に聞かれて僕は自分が夢を見ていたことに気がついた。

「何か言っていたか。」

 僕はベッドから起き上がりながら秋絵に聞いた。まさかとは思ったが『死ぬのが怖い。』などと口走っていたらそれも仕方のないこととは言え体裁が悪いと思った。

「人の名前を呼んでいたわ。私じゃなかったのがちょっと悔しかったけど。何もしてあげないんだから仕方がないね。ねえ、テリーってイギリスで一緒にいた人なの。」

 秋絵に聞かれて僕は黙って頷いた。隠しても仕方のないことだと思ったしそうすることで秋絵自身が秋本の方に向かえばそれでもいいと思った。

「その人、どんな人なんだろう。会ってみたい。あなたがそんなに好きになった人に。」

「テリーは売春婦、君の大嫌いな類いの女だよ。自分の性を金で売るなんて女としての誇りも何もない。そんな女がいるから何時まで経っても女は男の性の捌け口だの男のおもちゃだのと女性を軽く見る男が絶えないって。それが秋絵の口癖だったよな。僕は良い悪いは別にしてそれはそれなりに勇気のいることかも知れないと思うけど。まあそんなことはどうでもいい。秋絵はテリーに会って一体どうするんだ。」

「体を売るのを教えてもらうの。どんなものなのかやってみなければ分からないから。」

 秋絵の言っていることが冗談なのはすぐに分かったが、秋絵が何故そんな冗談を言うのかその理由が分からなかった。秋絵の本音を探るためにちょっと茶化してみた。

「秋絵じゃよほど場末にでも行くか、変態でも相手にしなけりゃ売れないよ。」

秋絵は素直に受けたのか吹き出した。

「そうかも知れない。もう若い年ではないからね。本当はそのテリーっていう女に会ってあなたのことを聞いてみたい。その人はどうしてそんなにすぐにあなたのことを理解出来たのかそれを聞いてみたいの。そして一言お礼を言いたいの。私が出来なかったことをあなたにしてくれたことを。」

「テリーは何も僕のことなんか理解してないよ。彼女には秋絵が思っているような理解するなんて感覚はないよ。今まで俺達が関わってきた人間達は自分たちを含めて誰もが多かれ少なかれ武装をしていた。学歴、経歴、教養、社会的地位、そういったもので。

 ありのままの裸の人間なんてものは見たことがなかった。ところがテリーは裸で生きているんだ。彼女が売春婦だからって別に洒落じゃないよ。何でも直接自分で感じてその感じたままを自分のものとして取り入れているんだ。

 テリーが僕のどんなところをどう感じたのかそれは分からないけど何かが彼女の感性に合ったらしい。僕には彼女の直線的な感情表現が珍しくてそして好ましかった。彼女には直線的に感情を表現しない理論武装した人間が珍しかったのかも知れない。それに多分に同情もあったんだろう。ただテリーと一緒に暮らしていて思ったことは男と女はたまにはお互い裸になってみることも必要かも知れないってことかな。

 これも別に洒落じゃなくてさ。秋絵とはお互いに武装したままでつき合ってきた。そのお互いの武装が魅力だったのかも知れない。そしてその身に着けた武器で相手を屈服させようと手練手管を使って来たのかも知れない。秋絵の言うように真っ直ぐにお前が好きだと言えれば俺達も変わっていたのかも知れないね。

 自分が死ぬことでさえこの世界にいると強がって見せなければいけない。冷めた生き方を通してきたからには人前でそんなに怖がって様子を見せるわけにもいかない。そんな気持ちばかりが先に立って恐怖を自分の心の中に閉じ込めて独りでそれと向き合っていかなければいけない。ところがテリーと一緒にいると何の拘りもなく「怖い。」と言うことが出来た。

 そうして口に出して「死ぬのが怖い。」と言ってみると思ったほど自分が死ぬってことが怖くはなくなっていた。本当は怖くないわけじゃないんだけど覚悟っていうのか諦めっていうのか何となくそれも仕方がないかなって。とにかく残された時間をどうして生きようかとかそんなことを考えるようになった。
何時死ぬのかなんてことは普通誰にも分からない。分からないから考えずに生きていられるんだけれど、

 誰のところにも必ず死はやって来る。たまたまそれが目に見えるようになっただけだってテリーが言うんだ。

『嬉しいなら思い切り喜べばいい。悲しければ思い切り泣けばいい。人間は自分次第で強くもなれれば弱くもなれる。悪魔のように邪悪になることも天使のように優しくもなることも出来る。あなたは生きているんだから生きることだけを考えればいい。』

 それが彼女の哲学らしい。学問も教養もないけれど頭のいい女だよ、彼女は。無防備なようでいてものごとの本質をしっかりと捉えている。負けそうだよ。でもどうも僕達には『生きているんだから生きることを考えよう。嬉しいなら喜ぼう。悲しいなら泣けばいい。』そういったものの考え方は確かに一つの真理かも知れないけれど、どうもそれを素直に受入れ難いところがあってさ。何でも理屈をつけたがる理論武装派だからな。ところがそう言うとテリーは言うんだ。

『それならどうするの。生きたくないって言ってみてもあなたは生きてるじゃないの。それを捨てることは神の意思に反すること。あなたのように理論も何も考えることも出来ないこんな私だって生きているわ。』

 そう言われるとそれが何だか妙に説得力があるんだよな。何故こんな女が売春なんかしているのかと思うくらい聡明な女なんだ。その聡明な女が心の一番奥底に澱んでいる人の本性を見続けて来たからなのかじっと見つめられると何だか心の中を見透かされているようで頭を下げてしまうんだ。でも何だかんだと理屈をつけたがる僕達理論武装派としては感嘆には引き下がれないので抵抗を続けるんだ。そうするとテリーは言うんだ。

『あなたはすぐに自分の人生の意味とか死ななければならないその理由とかそんなことばかり言うけれどそれなら人が何故生まれて何故死んでいくのかそれを説明出来るの。今はあなたも私も生きている。だから生きることだけを考えればいい。

 そのことに何の理由もいらない。人は神の意思で生まれて、生きて、そして死んでいく。あなたに神が馴染みのないものならこの世の中に存在するすべてのものを遥かに越えたルールみたいなものと言い換えてもいい。とにかくあなたが今生きることが出来ないなら私があなたと一緒に生きてあげる。』
これには完全にまいったよな、お手上げだった。」
秋絵は黙って僕の言うことを聞いていた。