秋絵は寂しそうな顔をした。その場に合わせて作った表情ではないように思えた。秋絵は頭のいい能力もある女だった。ただその分プライドも高く自分の感情を真っ直ぐに表現することを軽蔑していた。そんな秋絵との関わり合いは勢い煩わしいものにならざるを得なかった。
若かった頃はお互いに手練手管を尽くして相手の心の内側を探り合った。そしてそのことだけに専念出来た時はそんな駆け引きがゲームを楽しむように心を躍らせた時期もあったが、日々の時間に引き摺られ小突き回されるような生活の中ではそんな駆け引きは煩わしさ以外の何者でもなかった。
そしてそのことが、僕と秋絵の間を少しづつ引き離して行った。 お互いにそのことを分かっていながら何も変えようとしなかったのは、お互いの関係よりも自分自身のプライドを優先していたからだった。そしてお互いに自分のパートナーに寄り添って生きる代わりに自分自身の世界にのめり込んでいった。
秋絵は広告関係の仕事で僕は文筆編集関係で、それぞれの世界ではそれなりに名前は売れたが、売れれば売れたその分だけお互いに多忙な生活に引きずり込まれて二人の関係は荒廃していった。そして僕達は二人の関係が永遠に終りを迎えようとしても決して自分の領域から踏み出して相手に歩み寄ろうとはしなかった。
またノックの音がしてあの白石という若い看護婦が食事を持って入って来た。ワゴンには二人分の食事が用意されていた。
「秋本先生がお二人分用意しろと言って。奥様、ここに置きますからお願いします。」
ワゴンをテーブルの脇に置くと若い看護婦は僕と秋絵の顔を交互に見回した。
「食事が済んだら連絡してください。」
看護師はそう言い残して部屋を出て行った。
「あの人、私達のこと変な目で見ていたみたいだけど何故かしら。変な看護婦、秋本先生によく言っておくわ。」
秋絵は若い看護婦が出て行ったドアの方を振り返った。
「君のそんな態度にも問題があるんじゃないのか。秋本には黙っていろよ。言う時には僕から言っておくから。」
秋絵に一言釘を刺しておいたのは白石という看護婦がまた二人の話を持ってくるかも知れないという気持ちがあったからだった。今更悪趣味かも知れないとは思ったが、秋本と秋絵が何をしてこれからどうなっていくのかまんざら興味がないわけではなかった。
「でも何だか感じ悪いわ、あの看護婦。」
秋絵はまだ納得出来ない様子だったが、もう一度、「僕の方から秋本に言っておく。」と念を押すと渋々承知した。秋絵がワゴンからテーブルに食事を並べ始めたのを見てゆっくりベッドから起き上がってテーブルについた。
食欲はなかったが出されたものは出来るだけむら無く食べるように心掛けた。
『一秒でも長く心臓を動かしておくためだけの治療を受ける代わりに残された時間を自由に生きることを選んだのではなかったか。』
死に対する恐怖に打ちひしがれそうな自分にそう言い聞かせて自分を叱咤激励して口に食べ物を運んだ。秋絵は僕と向かい合って黙ったまま食事を口に運んでいたが、あの看護婦が気になるのか時々手を止めて考え込んでいるようだった。
「秋絵、どうかしたのか。何か気になることでもあるのか。」
秋絵は僕の言葉に驚いたように顔を上げた。
「別に、何も、ちょっと考えごとをしてただけ。何でもないわ。」
「何か心配事でもあるなら言ってみたら。尤ももう何もしてやれないだろうけど。」
そう言いながらこんな時になって秋絵を気遣い始めた自分がおかしくなった。
「秋本のことだったら僕からそれとなく話してみてもいい。あいつもきっと異存はないと思う。僕から言い出すのなら問題はないだろう。」
口に出して言ってからとんでもないことを言ってしまったようにも思ったが、今更元に戻せるものでもないのでそのまま秋絵の様子を見守った。気色ばんで反論してくると思った秋絵は案に相違して寂しそうな言葉調子で僕に答えた。
「こんな時になってまであなたに迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。今更正直になっても何の意味もないかも知れないし、返ってあなたを苦しめるだけかも知れないけれど、せめて今は私もあなたに対して正直になろうと思う。
秋本さんのことは確かに好きよ。もう何年か前から。そう私がすい炎でここに一月くらい入院した時から。別にセックスとかそんなことじゃなくてあなたが私の方を向いてくれなくなって独りで淋しい時もあったし、仕事のこととか辛いこともあった。そんな時に自分の健康を相談するついでと思って秋本さんに相談したことがあった。
自分の体にも能力にも自信をなくして落ち込んでいる時だったから、秋本さんの存在はその頃の私には大きかった。」
僕は秋絵の言うことはそれなりに最もだと思った。秋絵が膵臓炎で入院していた時、僕は新しい出版物の企画でほとんど家には帰っていなかった。たまに帰ってもろくに病院にも顔を出さず秋絵と話をすることもしなかった。とにかくいい物を出版しようと暇さえあればあれこれ企画を捻くり回していた。
「随分良く小まめに医者に通っているとは思っていたけれど。でも君のことを構ってやらなかった僕も悪かったのかも知れない。」
秋絵は首を横に何回も振った。目には涙が溢れそうに光っていた。
「悪かったのは私の方。あなたには、あなたにだけは意地を張らずに正直になろうと何時もそう思って来たのにあなたのしれっとした自信たっぷりの表情を見ると何だか見下されているようで『負けるものか。』って意地を張ってしまって、どうしても自分の気持ちに正直になれなかった。
本当に辛い時、あなたの中に飛び込んでいきたかったことが何度もあった。でも、どうしても出来なかった。自分の負けを、自分の弱さを認めるような気がして。一体誰が誰に負けると思ったんだろう、私って。こんなところまで来なければそんなことさえ分からないなんて私って本当に馬鹿な女よね。」
秋絵の目から涙が溢れ始めた。秋絵は声を押し殺したまま涙を流し続けた。僕はそんな秋絵を黙って見つめていた。声を押し殺して涙を流している秋絵を見ていると結婚してから随分遠い存在としか意識しなかった秋絵に淡い親しみが湧いてきた。
秋絵の言うとおりお互いもっと早く手を打たなかったことを後悔したが、結局ここまで来なければ僕も秋絵も分からなかったのかも知れない。そんな風に考えて心に浮かんで来た未練を打ち消した。
「秋絵、秋本とは、もう、」
『男と女の関係なのか。』と聞きたかったが、言い方が露骨に過ぎると思い直して言葉を飲み込んだ。秋絵は僕の言おうとしたことを察したのか黙って頷いた。