「採血をしますのでお願いします。」
事務的な口調だったが、変に明るく振る舞われるよりも却って気が楽だった。脂肪が落ちて浮き出た血管に針が刺されてガラス管の中に血液が吸い込まれていくのを眺めながらこうして自分の健康な部分だけを体から取り出して何処か他に移し替えられないものだろうか等と考えている自分が未練がましく思えて無性に悲しかった。
まさかこれ程までに自分が生きることに執着するなどとはこれまで考えもしなかった。そしてその執着が自分自身の人生に対する未練なのか生き物としての本能なのか見当もつかなかったが、自分が死を恐れなんとか生にしがみつこうともがいているのは事実のようだった。
看護婦は手早く数本のガラス管に血液を採取すると針を抜いた後に脱脂綿をあてがって「しばらく押さえていてください。」と言い残して部屋を出て行った。
検査が終わると後にはまた僕独りが残された。時計はまだやっと一〇時を過ぎたばかりだった。先のない僕にとってはかけがえのない筈の時間も遅々として進まないことが妙に腹立たしかった。テレビを点けてもその騒がしさが耳障りなだけで、まして本など開いて見る気にもなれなかった。死に対する恐怖が僕の心を揺さぶり続け、僕は死の恐怖におののき続けた。
死という得体の知れない現実の前にたった独りで放り出された自分がどれ程無力なものか、どんな時でも死を受け入れ自分に残された時間を穏やかに生きるなどということが死を意識する必要のない時に思いついた人間の思い上がった絵空事だということを心に刻みつけられているようだった。
僕は体を焼かれるような焦燥感に耐えながらただじっと時が過ぎていくのを待った。いっそのこと早くその時が来ればいいとも思った。遅かれ早かれその時が来るのなら僅かな時間を与えられてこんな苦痛に耐えるのは無意味に思えた。何か別のことを考えようとしたが、どんなこと考え始めても何もかも塵のように飛び散ってしまうばかりで決して一つの形にまとまろうとはしてくれなかった。僕は自分を過信して自分の生の終末を先取りして聞いたことを後悔したくなった。
『自分の人生を他人に左右されるのが嫌だったのではないのか。自分の人生は最後まで自分で決めて生きるのではなかったのか。そのために無理押しをして秋本から事実を聞き出したのではなかったのか。』
自分に言い聞かせて少しでも平常心を取り戻そうとしたが、そんなことでは到底落ち着けそうにもなかった。煙草を点けては消し、それを繰り返しては気分が悪くなって込み上げて来る吐き気を堪えきれずにトイレに駆け込んで何回も嘔吐した。そしてトイレから出て来てうがいをしながら自分の腑甲斐無さや愚かさ加減に笑い出してしまった。
『誰もがこんな気持ちで死を待つのだろうか。そしてくたくたに疲れ果てて却って死を待ち望む心境になっていくのだろうか。』
そんなことを誰かに聞いてみたいような気がしたが、聞く相手など誰もいるはずもなかったし、いたとしても聞けることでもなかった。タオルで顔を拭っているとドアの開く音がして秋絵が入って来た。四か月ぶりに見る秋絵の顔だった。
秋絵を見た時、これまでの経緯を忘れて思わずすがり付きたい衝動に駆られたが、僕の心にはその衝動に抵抗する強い力があった。秋絵はゆっくりと僕に近づいて来た。
「何をしていたのかは知らないけれど随分久し振りね。イギリスに行ったそうね。イギリスはどうだったの。」
秋絵の言葉を聞いてすぐに縋るのを思い止どまったのは正解だったと思った。
「それはお互い様だろう。でもイギリスは楽しかったよ。あの世のいい土産話になったよ。出来ればもう一度行きたいくらいだ。もっとも時間と体が許してくれればの話だけどな。」
「ばかなこと言わないで。一体どれだけ心配かけたら気が済むの。今度こそちゃんと治療を受けてよ。秋本先生にもお願いしてあるから言うことを聞いて。」
秋絵は気色ばんで治療を受けろと言い張った。
「誰が心配してくれと頼んだ。何のために無駄な治療を受けるんだ。君の世間体のためにか。僕はそんなことのために自分に残された僅かな時間をチューブでベッドにくくり付けられて終わりたくはないんだ。」
心の底で思っていたことを口に出して言ってみて自分が何故治療を拒否してまでイギリスに出かけたのかを思い出した。病院のベッドで残された時間を終わりたくなかったからだった。そのことを思い出したら少しばかり気持ちが軽くなったような気がした。
僕は手に持ったタオルをタオル掛けに掛けるとベッドに戻って横になった。秋絵は僕の後を追いかけるようにベッドの脇に来て椅子に足を組んで腰を下ろした。
「あなたのためよ。あなたのことを心配して言っているのよ。だからきちんと治療を受けてよ。諦めないで。秋本先生にお願いして準備は出来ているの。後はあなた次第よ。最後まで頑張って。」
秋絵は僕が想像していたとおりのことを言った。ただでさえ苛立っているところに嫌味まで混ぜ込んで分かりきったことを尤もらしく言われると無闇と腹が立った。その腹立たしさを言葉にして秋絵に投げつけた。
「秋本に頼むなら俺が死んだ後の自分のことを頼んでみたらどうなんだ。もしもお前が俺と同じ立場になることがあったらその時考えてみればいい。体中にチューブを挿されてベッドに縛りつけられて、ただじっと病室の壁や天井を見詰めながら死を待つことを。
そんな死に方は絶対にしたくはないんだ。どうにもならないことに無駄な時間を使いたくはない。それよりもう一度イギリスに行きたい。出来るだけ早く。」
言うだけ言ってしまってから自分が口にした言葉のあまりの激しさに自分自身でたじろいてしまった。秋絵は下を向いたまま顔を上げずに呟くように言葉を返して来た。
「私、あなたが言ったようにするかも知れない。秋本さんにあなたのことだけでなく自分のこともお願いするようになるかも知れない。でも今はあなたのことを本当に心配しているの。あなたの言うことはよく分かるわ。もしも自分があなたと同じ立場だったら私も治療を拒否するかも知れない。
残された時間を自分の好きなように使って自分の好きなように生きようとするかも知れない。それでもあなたには適切な治療を受けて貰いたい。別に誰のためでもない。私のために。私はあなたに一日でも長く生きていて欲しいと思うから。私の側にいて欲しいから。
秋本さんのことはこれとはまた別のこと。独りになったら自分を支えてくれる人が欲しくなる時が来るかも知れない。もしも自分が独りになった時に将来の可能性の一つとしてというのならば秋本さんもその内の一人かも知れない。
ねえ、あなた、一つだけ教えて。何故そんなにイギリスに行きたがるの。もう四か月も行って来たじゃない。」
「向こうで女と暮らしていた。売春婦とかその類いの女だったけど。」
秋絵の常とは違ったはっきりしたものの言い方が気に入ったのでつい本当のことを言ってしまった。口に出してしまってから少し後悔したが、それ以上は口に出さずに秋絵の様子を見ていた。